9月27日に暗黒裁判の首謀者、冨田安信・前研究科長を証人尋問
原告・浅野教授も証言――地位確認訴訟第13回弁論で決定(上)
浅野健一・同志社大学社会学研究科メディア学専攻博士後期課程教授が、学校法人同志社(水谷誠理事長)を相手取り、2014年2月3日に提訴した地位確認訴訟の第13回口頭弁論が、2016年6月7日(火)午後1時半から、京都地裁第6民事部208号法廷で開かれました。裁判のハイライトである証人尋問が次回の9月27日(火)午後1時半から4時まで同じ208号法廷で開かれることが決まりました。証人採用されたのは原告の浅野教授と冨田安信・同志社大学大学院社会学研究科長(当時、現在、産業関係学専攻教授)の二人です。
裁判は提訴から2年4カ月、いよいよハイライトの証人調べで、年末か2017年初めに判決が言い渡される見込みです。
傍聴した支援者らの報告をもとに支援会事務局から報告します。
被告側傍聴者は今回も冨田・松隈両氏だけ
担当裁判官は堀内照美判事=第6民事部総括判事、髙松みどり判事、渡邊毅裕判事補。原告代理人の武村二三夫、平方かおる、小原健司、橋本太地各弁護士が出席しました。被告側は代理人の小國隆輔(同志社大学法科大学院嘱託講師)、多田真央両弁護士が出廷しました。
今回も浅野教授の雇用闘争を支援する同志社大学教授、元同志社大学学生(16年3月、文学部卒)、京都大学大学院生、元ゼミ生の父親、市民が傍聴しました。
被告側の傍聴者は冨田安信・元大学院社会学研究科長兼社会学部長(現在、産業関係学専攻教授)と松隈佳之・社会学研究科事務長の2人だけでした。傍聴席に右奥のいつもの席に、終始無表情で座っていました。浅野教授と被告の学校法人同志社(水谷誠理事長)との労働契約問題に無関係の2人だけが参加し、法人の総務人事責任者が仮処分の審尋以降、一度も法廷に来ないのは理解しがたいことです。
冨田氏と松隈氏は、火曜日の午後という勤務時間内に、この裁判の傍聴をしているのは、正当な業務に当たるのでしょうか。二人の行為は同志社大学の教職員に求められているコンプライアンス(法令順守と社会的規範)に違反していると考えられます。研究科長・学部長や事務長の仕事は教職員の仕事を支え、学生によりよい教育環境を提供することであり、一部の教員と組んで、教員の労働権を強奪することは任務にないはずです。
原告、研究者、メディア学科学生らの陳述書を提出
口頭弁論では、被告側が準備書面(6)を提出、原告側は第11~13準備書面と甲86~103号証を提出しました。その後、堀内裁判長が「次回期日は人証(証人調べ)を行います」として、原告浅野教授と、冨田研究科長を証人とすると表明。浅野教授の主尋問、反対尋問はそれぞれ30分、冨田研究科長の主尋問は30分、反対尋問は40分と決まりました。「浅野さん、冨田さんの順番でいいか」と双方に尋ね、原告・被告の代理人が同意しました。その後、期日の決定になり、裁判長は「だいぶ先になりますが、9月に行いたい」と述べ、9月27日(火)午後1時半から4時まで、208号法廷で証人尋問が行われることになりました。
原告側は、同志社大学の吉田由紀雄事務局長・副学長(当時)と庄司教授も証人申請していましたが、残念ながら認められませんでした。
この日、原告側が提出した書証のほとんどは、浅野教授の大学院教授としての業績、社会的貢献などを立証するための陳述書です。内田博文・九州大学名誉教授、日森文尋・元衆議院議員、中嶋啓明・共同通信記者、神林毅彦・法政大学大学院講師(ジャーナリスト)、元政策学部学生(冨田氏と渡辺武達教授との親密な関係を証明)、法学部学生(大学への要望書運動)、馬場尚子・浅野ゼミOBG会会長(ゼミ1期生、フリーアナウンサー)、大石薫・元上智大学講師(インドネシア語翻訳者)、元浅野ゼミ生(13年度1・2年生で13年12月27日の原告仮処分記者会見に同席)ら幅広い人たちが陳述書を書いてくれました。現役のメディア学科学生が、浅野教授の支援をしたのは自分たちの意思であり、教授が強制したとの被告主張は許しがたいと断じているのは画期的です。被告幹部、冨田氏、メディア学科の6人(渡辺武達氏は現在名誉教授)はこの陳述書を読んで、自分たちのしたことを反省、謝罪すべきでしょう。学生が浅野教授に支援を強制されたという主張は、自治・自立・品格を教育理念にする同志社人として自己否定です。学生をあまりにも愚弄した発想です。猛省を求めたいと思います。
原告側はまた学生、市民が浅野教授の教壇復帰を求めて学長と理事長宛に出した要望書(2種類)の署名簿を提出しました。この中には現役のメディア学科学生(4年生)3人が含まれています。被告と冨田氏は、浅野教授がいなくなったことで困っている学生はいない、特にメディア学科では浅野教授の解雇に抗議する学生は一人もいないと断言していますが、それらの主張が虚偽であることが明白になりました。
原告側は6月30日までに、浅野陳述書(甲103号証)に引用されているものなど、書証を追加提出します。
証人調べの準備のため、6月30日(木)午後1時から武村法律事務所で打ち合わせ会議を行います。
村田学長が原告の追放を共同通信幹部に相談していた
ドイツ通信社東京支局記者の神林毅彦さんは、村田晃嗣学長(当時)が一般社団法人共同通信社の会田弘継・論説委員長(当時、現在青山学院大学教授)に、浅野教授を同大から追放したいと相談していたことを陳述書で明かしています。
〔 私の職場は共同通信本社である港区東新橋の汐留メディアタワーの7階にあり、共同通信社の記者や編集幹部とは顔を合わせることがしばしばあります。とくに7階には共同通信社・特別編集委員(元論説委員長)である会田弘継氏のオフィスもありました。会田氏は同階のAP通信社やスペインの通信社EFE、韓国の聯合通信社などの記者を自室での食事やお茶に招いてくれることが何度となくあり、私も他の通信社の記者や会田氏と話す機会ができました。会田氏は、共同通信社ジュネーブ支局長として国際連合等を担当、ワシントン支局長としては、ホワイトハウス、他米政府機関を長年取材するなど、国際政治の中枢の報道に携わった人です。米論壇誌The American Interest 編集委員、朝日新聞社「編集権に関する審議会」委員、公益財団法人アメリカ研究振興会理事などを歴任しています。また、「追跡・アメリカの思想家たち」(2008年 新潮選書)など著書や翻訳書も出版しています。現在は青山学院大学地球社会共生学部教授でメディア学を担当、また、長年、同志社大学一神教学際研究センターの研究員も務めています。
浅野教授はかつて共同通信社で記者(最後は外信部デスク)として勤務していたこともあり、浅野教授に会田氏と同じ階で働いていると電話で話した際に伝えたところ、「よろしくお伝えください」と言われました。なかなか、会田氏に話しかける機会がありませんでしたが、7階の廊下でたまたま会田氏に出くわした際、浅野教授がよろしくと話していた旨、そして、私が取材で浅野教授にお世話になっていることを伝えました。すると、会田氏は、同志社大学の村田晃嗣学長(当時、現在法学部教授)が「浅野はいらない。浅野にはほんとうに困っている。何とか共同通信で引き取ってもらえないか、と言ってきた」と私に話してきました。会田氏は村田氏などと共著で「アメリカのグローバル戦略とイスラーム世界」(明石書店 2009年)を出版しており、長年のお付き合いがあるようです。
村田学長が会田氏にその話をした時期は聞きませんでしたが、私が会田氏と話をしたのは2014年夏です。浅野教授の定年延長拒否が学内で公然化したのは2013年11月と聞いていますので、村田氏がこの発言をしたのはその前だと思われます。浅野教授の「追放」が決まっていれば、このような言い方をすることはないでしょう。
私は米国で留学経験があるので、会田氏からその話を聞いたとき、日本の大学では米国の大学とはまったく反対の動きを、しかも、学長主導でするのかと、あきれました。米国の大学は常にプライオリティを考えています。大学におけるプライオリティとは、大学、学生、そして社会に貢献することです。浅野教授はおそらく日本で一番ジャーナリズムに関する書籍を出版しており、私を含めて、多くの海外メディアの記者が教授の意見を自分たちの記事に引用しています。浅野教授は海外経験も豊富で、学生時代に国家資格である通訳案内士(英語)の免許を取得、英語も流暢に話します。日本に滞在する米ニューヨークタイムズ紙、英インディペンデント紙など海外の主要な大手メディアの記者などとも知り合いで、彼らを大学のシンポジウムにも招いてきました。 〕
浅野教授は別の共同通信関係者からも、同じような話を聞いたことがあるそうです。浅野教授は「共同通信の内部を描いた本をたくさん出している高齢の私を共同が再雇用するはずがない。あまりに荒唐無稽な話なので、何かの間違いだと思っていたが、村田氏ならそういう過去は知らずに、こういう発想をしたのではないかと今は思う。のこのお国会で安倍ヨイショの公述をする男で、軽いのだ。重要なのは、2013年10月29日より前に、村田学長が私の追放を画策していたことが分かったことだ。渡辺グループの小黒氏、冨田氏らが村田学長の執行部と事前に謀議していた可能性が高くなった」と話しています。
現役学生らが浅野教授支援は自主的と陳述書
また、2013年12月27日に京都司法記者クラブで、浅野教授の仮処分申立ての記者会見に同席したメディア学科の学生2人(一人は現在、別の大学の大学院1年生、もう一人はメディア学科4年生)が、2013年秋からの浅野教授の雇用闘争の支援は学生たちが自主的に行ったことを陳述書で書いています。被告側と冨田氏は、浅野教授が教授としての権力を使って学生に支援を強制したという趣旨の主張を繰り返してきました。2人の陳述書の一部を抜粋します。
〔 2013年11月13日に研究科委員会で浅野教授の「2014年度の定年延長」が否決されましたが、その結果も会議の経緯も理由も大学は全く明らかにしませんでした。浅野教授からこの否決について聞いた私たちは、当時の同志社大学学長であった村田晃嗣学長に、定年延長拒否に反対する嘆願書を何度か渡すなどして、大学に説明を求めました。ですが同年12月13日以降に、富田研究科長が浅野教授の指導を受けていた大学院メディア学専攻の院生たちに送った手紙が原因で、これまで大学院と学部の学生を率いていたメディア学専攻博士後期課程2年生で浅野教授のゼミや講義のティーチングアシスタント(TA)を務めていた院生の矢内真理子さんが12月下旬に姿を消してしまいました。このままでは学生の意見は大学に全く聞かれないまま、どんどん事態が進んでしまう。このように考えた私たちは、同年12月27日午後2時から京都地方裁判所司法記者クラブで開かれた浅野教授の地位保全仮処分申し立ての記者会見に赴き、浅野教授と小原健司弁護士と共に、学生としての意見を述べたのです。
本裁判において、学校法人同志社は、浅野教授が自分の雇用問題を有利にするため、教授としての権力を行使して、支援を強制したという趣旨の主張をしているようですが、こうした活動は、他者から強制されたものではなく、私たちの自主性によるものであったことを強調したいと思います。浅野教授は私たち学生に活動を強要しませんでした。大学から何も説明がない中、浅野教授から状況を聞き、それぞれの学生が自身の考えに従って行動しました。
浅野教授の定年延長が否決されてから2年半経ちましたが、今でも私たちは大学のやり方に納得していません。私たちはこれからも自分の意志で、浅野教授が同志社大学教壇に完全復帰できるように応援する所存です。この点を踏まえた上で、事態を公正に判断していただきたいと思います。 〕
浅野ゼミOBG会長が浅野教授非難に反論
また、浅野ゼミOBG会の馬場尚子会長は陳述書で、浅野教授が大学院教授として不適格だという被告主張に次のように反論しています。
〔 浅野教授を「不良教授」とし、大学院教授としてのレベルにないと断定しているこれらの主張は、私が浅野教授やそのゼミ生たちと関わってきた中で得た認識と大きくかけ離れており、耳を疑う内容ですので、私が自身の目で見、耳で聞いてきたことを申し述べ、実際の学内の様子はどうだったか、浅野教授がどのような指導教員であったかご理解いただきたいと思い、陳述書を記しました。
はじめて浅野教授の定年延長が認められないかもしれないと聞いたのは2013年10月末のある日でした。私の携帯電話にふるえる声で「助けてください」と電話がかかってきたのです。
浅野教授のもとで博士論文を執筆しようとしている博士後期課程の大学院生、矢内真理子さんでした。矢内さんは私が浅野ゼミでゲスト講義を行った際にティーチング・アシスタント(TA)として大変細やかにサポートしてくれた、自ら考えて行動することができる積極的な学生でした。2年半も前の出来事ですが、そのときの声ははっきりと記憶に残っています。
10月30日の研究科委員会で定年延長が認められなければ浅野教授は同志社にいられなくなってしまうかもしれないと知り、矢内さんは「先生のもとで来年以降も研究を続け、博士論文を書くつもりでしたので、仰天し、茫然としている状況です。体が震え、目の前が真っ暗になりました。」「これから一層研究に打ち込んで、よい博士論文を書こうと意気込んでいた矢先にこんなことになってしまい、途方に暮れています。来年以降の研究計画、ひいては私の今後の生活設計もできない状況です。」と手紙に書いてきています。浅野ゼミOBGの多くの人に送られた手紙ですので、公開可能と判断し、全文を「資料」として末尾に貼り付けます。
この手紙の中で矢内さんは「私の心情」として、「労働とは生きがいであり、まさに人生そのものであると思っています。浅野先生の雇用権を守ることは、先生の命を守ることです。私もまだ学生ですが、研究者・大学教員を志す者として、現在の研究生活も私の人生のすべてであると考えています。ですが、メディア学専攻の先生たちは、その大切な雇用について、浅野先生に何の説明もなく辞めさせようとしているのです。先生や私のことを人としてみなしていないということの表れです。そう考えると、涙が止まらなくなってしまいました。
今回の人事に関して、メディア学科の先生方のあまりの幼稚さ、卑劣さを目の当たりにしました。来年万一のことがあった場合、ほかの先生から到底指導を受ける気持ちになれなくなりました。」とも記しています。
浅野ゼミOB・OGの代表として力になってほしいと矢内さんから電話で要請され、私は、浅野教授が大学を解雇される決定が下されるおそれがあるという社会学研究科委員会(大学院の教授会)の日、2013年11月13日に同志社大学の浅野研究室まで出張先の米国ボストンから帰国後直接出向きました。強行突破の海外出張と時差ぼけで大変疲れていましたが、行ってあげなくてはいけないと思わせる切実さが彼女の言葉にはありました。研究室には私の他にも、前述の大学院生をはじめとした現役生、インドネシアから国費留学してきた学生、浅野ゼミの元TAの同大助教、名古屋から駆けつけた元大手新聞記者のOG、同大で嘱託講師をしている3年ゼミ学生の母親、出版社社員、浅野教授の教えを請うて他大学や一般から受講しにきた方々など、10人ほどが集まり、ことの成り行きを見守っていました。
その後、私を含む数名は研究科委員会の終わるのを委員会が行われている新町キャンパス臨光館2階の教室外の廊下で待ち、富田研究科長に浅野教授がいなくなると困る現役の学生が大勢いるということを訴え(特に博士論文を浅野教授のもとで執筆する予定だった矢内さんと、インドネシアからの国費留学生のナジ・イムティハニさんにとっては浅野教授の指導を受けられなくなることは切実な問題でした)、改めて定年延長を検討してほしいと懇願しました。
富田研究科長からは、社会学研究科の会議に上げることはできるが、その結果がどうなるかは私にはわからない、というような返事がありました。望みは薄いかもしれないが、再考することは約束してもらえたと、大きな不安とかすかな期待を胸に、首の皮一枚つながったような状態で私たちは研究室に帰ってきました。
研究室の空気は重いものでした。特に矢内さんは博士号取得について実家の両親から厳しく条件付けされていたらしく、将来への不安に押しつぶされそうな様子でした。目の焦点は定まらず、体は小刻みに震え、顔を手で覆いながら泣いていました。矢内さんはこのままでは精神的に追い詰められてしまうのではないかと、私は何もできないながら大変心配に思っていました。
国費留学でインドネシアから浅野教授のもとに来た学生も、大きな責任を背負って留学している分、必死で浅野教授の残留を訴えていました。研究テーマ、指導教授、在学期間を定められ、論文として結果を残すことを条件に国から資金を与えられて日本に留学しているので、これら条件が満たされなかった時、彼の研究の夢は閉ざされ、さらにどのような対処を受けるのかもわからず、将来に大きな不安を抱えていたに違いありません。彼も間違いなく浅野教授を必要としていた現役学生の一人です。
私の後輩に当たるゼミ20期生(2013年度3年ゼミ、共同研究テーマは「憲法改定とメディア」)の13人も次年度のゼミと、卒業論文の指導教授を失うことになると困っていましたし、1・2年のゼミ生の中にも、次年度に浅野ゼミへ入ろうと考えていた学生が多数いました。
もちろん、その他にも浅野教授に期待していた学生は多くいたはずです。特にジャーナリズムの現場を踏まえた講義で人気にある「新聞学原論Ⅰ」「新聞学原論Ⅱ」「マスメディアの現場」などの科目は、報道に関心のある学生(理工学部を含む全学部)には欠かせない授業でしたから、それらの授業がなくなってしまい、寂しく思っている学生はたくさんいるはずです。
浅野教授のもとには、社会問題を深刻に捉え、メディアを通してどのように解決していくことができるのか考察し、またメディアが抱える問題に焦点をあて、その実態を探るなど、自ら考えよう学ぼうとする人が特に多く集まっているように感じます。
浅野教授の教壇復帰を願う学生、卒業生、市民の方々は、何度も学長や理事長へ要望書、嘆願書を提出しています。現役の学生たちが大きな声で抗議をしていないのは、浅野教授を退職に追い込もうとしたメディア学科の教員たちが怖いからだと私には見えました。今後も講義で世話にならなければならないのですから。矢内さんは「教授である浅野先生にあんなひどいことをする学科スタッフと大学だから、弱い立場の学生には何をするか分からない」とよく言っていたと聞いています。メディア学科の教員たちと社会学部長らは、様々な方法で学生たちを威圧、懐柔して、浅野教授から離れるように手を尽くしていたと察します。私が見る限り、矢内さんが2013年10月30日につくった「浅野先生を守る会」を中心とした浅野教授の定年延長を求める動きは、学生たちの自主的な運動でした。
学校法人同志社は、浅野教授が教授としての立場を使って学生を動かしたという趣旨の主張をしているようですが、それは学生たちを愚弄するものです。私の知る同志社大学の学生に、教員に強制されて行動するような人はいません。私自身がそうだったように、浅野教授に対してあまりに理不尽で非人間的なことが行われているのを知って、学生たちが自主的に動いたと断言したいと思います。
熱意を持った学生が多く集まる浅野ゼミから年に一度、ゼミOBGや関係者に向けて「DECENCY」という研究成果をまとめたゼミ誌が送られてきます。それを見ても、その時社会で起きている問題についてじっくりと掘り下げ、大変な緻密さで調査研究しているのがわかります。浅野教授の指導の賜物です。
私も現役学生時代には、外部の方のインタビューや調査を通じ、大変貴重な研究経験を得ることができました。第二次世界大戦時に従軍記者としてインドネシアにわたり、現地新聞を接収して日本軍政のための新聞を発行したという、当時92才の元朝日新聞記者にインタビューし、戦時下でどのように情報を統制していったかという話を聞くことができました。甲山冤罪事件で被告とされた山田悦子氏から、新聞に書かれテレビで流された事実とは異なる情報が世論をどのように恐ろしいものに変えていったかという話を生で伺い、戦慄しました。これらの経験はメディアで働くことを目指していた私たちに大きな責任感と問題意識を持たせてくれました。このような浅野教授からの学びを経て、多くの学生がメディアの現場に巣立ち、活躍しています。他のゼミでは絶対にこのような経験ができなかったのは間違いなく、教育者としての浅野教授は同志社大学にとって唯一無二の存在であると卒業生を代表して強く訴えたいと思います。
私は、毎年送られてくる「DECENCY」を読み、私の卒業後もこのようなフィールドワークを通じた貴重な学びが20年にわたって継続されているのを大変嬉しく、心強く思っておりました。しかし、2014年4月に思わぬ形でこの浅野ゼミの伝統が断たれてしまいました。母校である同志社大学社会学部メディア学科に、学校法人同志社に失望の念を禁じ得ません。
もし、これからの審理によって浅野教授の同志社大学教授復帰が叶ったなら、浅野教授には70歳まで、志ある多くの学生に厳しくも大きな意味のある学びを与えていただきたいと思っています。また、退職される折には、私たちOBGがこれまでお世話になった方々を招き、学生とともに大教室で最終授業を受けたいと秘かな望みを持っております。
本年2月末に浅野ゼミOBG会を10人ほどの少人数で行いました。この会合では、浅野教授が近況と、2013年に起こった前例のない定年延長拒否問題から、現在まで続く裁判の経緯が詳しく語られました。集まった卒業生はみな一様に、20年の長きにわたって教授職を勤めあげた功労者である浅野教授の定年延長を妨害したメディア学専攻・学科の教授6人らの行為に憤慨し、専攻・学科の不当な行為を黙認・追認した大学執行部と法人理事会の冷遇ぶりに驚くと同時に怒りの声を上げ、浅野教授の早期復帰を切に希望しておりました。会合では、OBG会として教授の労働問題について卒業生としてできうるかぎり支援をしていくことを誓いました。
浅野教授が同志社大学の学生たちに必要とされる教授であるということをご理解いただき、同志社大学学生の未来を明るく照らすような公正な判断をしていただけることを心から願っております。 〕
馬場さんは陳述書に添付資料として、院生の矢内真理子さんが2013年11月1日に浅野ゼミ出身の元院生、元学生へ電子メールで送った手紙を貼り付けています。その手紙には以下のような記述があります。京都地裁へ行けば、全文を読むことができます。
〈浅野教授は1994年の赴任時から院教授(2004年の博士後期課程設置では文科省の「○合」=博士号を主査として出せる資格=の認定)を務めています。浅野教授は来年度から定年延長に入ります。ですが、メディア学科の同僚の先生たちが浅野先生の定年延長を研究科委員会にあげないという専攻会議の議決を出して、先生の働く権利を奪おうとしているのです。私怨に基づく嫌がらせで、背後に別の人物がいるのは誰の目にも明らかです。〉
矢内氏が言う、小黒教授ら4人の〈背後〉にいる〈別の人物〉は渡辺武達教授を指すのは間違いないでしょう。矢内氏は13年11月、「浅野先生の定年延長拒否問題で、渡辺教授以上のワルは冨田だ」と浅野教授らに断言していました。
(続きを読む)