偽証連発で浅野教授追放を正当化、次回12月20日結審
京都地裁地位裁判で冨田安信・前研究科長が証言
30人以上の支援者が傍聴、次回12月20日に結審
浅野健一教授が学校法人同志社(水谷誠理事長)を相手に起こした地位確認訴訟のハイライトである証人尋問が9月27日(火)午後27日午後1時半から4時まで京都地裁(堀内照美裁判長、208号法廷)で開かれ、浅野教授を「定年延長拒否」で解雇に追い込んだ冨田安信・前同志社大学(以下、同大)社会学研究科長(現在、社会学研究科産業関係学専攻教授、労働経済論)と浅野教授が証言台に立ちました。地位裁判の第14回口頭弁論での証人調べでした。
地裁を出る冨田氏 後ろに松隈氏・小國氏
この日の口頭弁論では、同大今出川キャンパスで裁判終了後に講演した作家の中山千夏さん、庄司俊作・同志社大学人文科学研究所教授、藤井幸之助・同大嘱託講師、山下幸夫弁護士、同志社大学社会学部メディア学科4年生、片桐元・元新潟日報記者、元同志社大学生の鶴見太郎さん、人権と報道・連絡会会員のSさん、元ゼミ生の両親、京都大学学生2人、京都弁護士会所属の弁護士、市民ら約30人が傍聴しました。
被告側の傍聴者は今回も松隈佳之同大社会学研究科・社会学部事務長一人でした。松隈氏はこの裁判を毎回傍聴しています。
次回の第15回口頭弁論は12月20日(火)午後1時、京都地裁208法廷で開かれます。また、12月20日午後6時30分から、同大今出川キャンパス・良心館409号教室で、浅野教授を支援している学生有志が運営している自主ゼミ「浅野健一ジャーナリズム講座」が開かれます。
双方は、11月末から12月初めにかけて最終準備書面を提出しました。被告側の書面は、冨田氏の偽証を真実として、浅野教授を“不良教授”として非難しています。
次回期日で結審の見込みで、判決言い渡しは来年3月までに行われる見通しです。
被告側が申請した唯一人の証人である冨田氏と、浅野教授が「偽りを述べない」と宣誓した後、浅野教授が同大の同僚4人によって“だまし討ち”的に同大から完全追放された経緯を証言。その後、冨田氏が証言しましたが、その内容は偽証のオンパレードでした。傍聴した作家の中山千夏さんは「富田さんは浅野さんが嫌いだから追い出したということを話した。これはいじめだ。このケースは、100%大学側が悪い。大学教授のレベルはこんなものか」と感想を話していました。ある支援者は「偽証罪と名誉棄損罪で告訴、告発すべきだ」と述べました。
9月27日夜、同大今出川キャンパスで裁判報告と中山さんを招いてシンポジウムが開かれました。シンポはネットのIWJのアーカイブズで見ることができます。シンポの記録は、「週刊金曜日」10月14日号、「紙の爆弾」11月号、京都大学新聞(10月16日号)に掲載されました。
冨田氏、浅野教授“不良教授”論の陳述書を維持
この裁判では、①小黒純教授ら4人による密室の会議で浅野教授の定年延長を決めたことが「メディア学専攻会議(議長は専攻教務主任の浅野教授)の決定」という被告側の主張の真偽②冨田氏が「専攻会議で浅野の定年延長なしが決まった」と勝手に判断して、2013年10月30日の社会学研究科委員会(議長・富田氏)で「専攻では拒否されたが、浅野先生が希望しているので私の提案で定年延長を提案する」として、浅野教授の件だけ、単独で審議し、新人教員採用の際の「3分の2」の可決要件を独断で科して、無記名投票で定年延長拒否を議決したことが適正手続きに則っているか―が最大の争点になっています。
被告側は、浅野教授と4回目の定年延長対象者だった渡辺武達氏の2人を除く4人による作業グループによる会合を、「臨時専攻会議」と称し、小黒純教授がその議長を務めたという全くの捏造を行っています。当時、村田晃嗣学長の任命でメディア学専攻の教務主任だった浅野教授は、10月16日の専攻会議で次年度の大学院の担当科目(浅野教授は博士課程前期・後期で6科目担当)を決めた後、4人に定年延長についての意見を求めました。あくまで、定年延長についての議決は、教務主任が招集し議長を務める専攻会議でしかできません。
冨田氏は被告同志社の代理人、小國隆輔(同大法科大学院嘱託講師)・多田真央両弁護士による主尋問で、彼自身が15年5月に地裁へ提出した陳述書について、「その内容に何か訂正等はありますか」と聞かれたのに対し、「ありません」と回答しました。冨田氏は悪意を持って浅野教授を大学という組織にふさわしくない“不良教授”と決め付けたウソだらけの陳述書を訂正しなかったのです。「浅野教授がいなくなって困っている学生はいない」「メディア学科に浅野解雇について抗議する学生は一人もいない」という陳述内容が事実に反することは、計20人近い現役学生(メディア学科の現役学生6人=現3・4年生4人を含む)が大学と法人へ、浅野教授の教壇復帰を求める要望書を何度も出していることから明らかです。学生たちは9月23日にも松岡敬学長と水谷理事長に要望書を提出しています。
冨田氏は、メディア学専攻の小黒、竹内長武、佐伯順子、池田謙一各教授が書いたとされる「浅野教授の定年延長 検討事項」と題したA4判・2枚の文書(作成者名、作成日時なしの怪文書)の内容を、すべて事実と認めて、証言しました。冨田氏は法廷に出した陳述書でも、怪文書の全文を事実という前提で、怪文書よりもっと悪質な浅野教授攻撃を行っています。冨田氏は法廷で、自身が刑法・民事上の名誉毀損に当たる怪文書配付の共犯者であることを宣言したことになります。
被告代理人はこの怪文書の記述を念頭に、「査読」とはどういう制度かと聞いて、冨田氏は「査読を受けた論文があるということは、厳しい研究者の審査をクリアした優れた論文であるという評価を受けます」などと説明しました。4人は怪文書で、浅野教授には「査読論文がない」と非難しています。しかし、浅野教授は海外で査読論文があり、国際コミュニケーション学会など主要な学会で研究発表を何度もしています。浅野教授の著作が海外で引用されている回数は同大の文系教員ではトップの一人に入るでしょう。
「臨時専攻会議」は専攻会議で設置と偽証
冨田氏は浅野教授の代理人の平方かおる弁護士の反対尋問に対し、「臨時専攻会議」という会議体、機関が同大には存在しないことを認めた上で、メディア学専攻で特別に作ったと聞いていると証言しました。平方弁護士の追及に、「メディア学専攻の先生方が浅野先生と渡辺先生の定年延長を審議するときに、その4人の先生に審議していただく場合に臨時専攻会議というのを作ってそこで審議をするということを、メディア学専攻の先生方が合意されたと聞いてます」と答えました。「それは誰に確認しましたか」との質問に、「メディア学の先生に確認しております」と返答。平方弁護士が名前を尋ねると、かなり躊躇した後に、「小國先生から聞いた」と回答。傍聴席がざわついた。浅野教授が原告席から「小黒教授の間違いでは」と言うと、あわてて「小黒先生です」と訂正しました。「いつ聞いたか」という問いには、「覚えていない」としか答えられませんでした。平方弁護士は「原告は教務主任で、『臨時専攻会議』は存在しないと明言している」と述べました。
小黒教授がもし、「専攻会議で『臨時専攻会議』という機関を設置した」と冨田氏に伝えているとすれば、小黒氏が捏造していることになります。小黒教授に証言してもらうしかないでしょう。メディア学専攻会議で、臨時専攻会議を設けたというのは架空の話です。どうしてこういう作り話する必要があったのでしょうか。
冨田氏は、研究科委員会で「専攻会議で浅野教授の定年延長拒否が決まった」と勝手に判断して議事を進めましたが、その根拠として、小黒氏が13年10月29日午後零時半ごろ、社会学研究科事務室の横田秀哉係長へ渡した「審議結果のお知らせ」文書をあげていました。この文書は小黒氏が同年10月28日朝、研究室棟にある私の郵便受けに入れた5枚の文書(通知文と4回の会合議事録)の一枚目で、宛先が「メディア学専攻教務主任 浅野健一先生」になっています。平方かおる弁護士の「この文書以外に説明などを受けていないのか」との問いには、「なかったと思います」と断言しました。そうであるなら、「臨時専攻会議の設置」について小黒氏から聞いたのは、一体いつのことなのでしょうか。ウソをつくとどこかで辻褄が合わなくなります。
冨田氏は人事案件では専攻で決まれば、最後までそのまま認められるとしたほか、「定年延長の申合せの中にあるのは、研究科委員会に定年延長者を提案するときには、担当予定科目を一覧も付けて提案しなさいという規定があります。(=まず次年度の担当科目を決めてから定年延長を決める)」「(13年10月29日に小黒先生から事務の人が受けった紙の宛先は)浅野先生ですね」などと原告側の主張の正しさを裏付ける証言を連発しました。
浅野教授指導の「院生は3人」はウソ
冨田氏は浅野教授が13年度に指導していた院生を「3人」と証言しました。これは虚偽です。浅野教授は博士後期課程3年のナジ・イムティハニさん(インドネシア政府の国費留学生、インドネシア国立ガジャマダ大学文学部日本学科助教)と同2年の矢内真理子さん、博士前期課程2年の荻野友美さんのほか、前期課程の特別学生(留学生)4人を指導していました。
冨田氏は証言で「修士課程2年だった学生に関しましては、修士論文を執筆して修了し、就職いたしました」と証言しましたが、これも事実とかなり違います。荻野さんの母親が浅野教授に明らかにしたところによりますと、荻野さんは自己都合で14年4月から半年休学して14年秋期に復学して15年3月に修了する予定でしたが、新しく指導教授になった小黒教授がほとんど指導せず、修了は15年9月となったそうです。母親は「会社に勤めながら余分に半年かかってやっと修士論文を完成できた。浅野先生がいなくなって困った」と浅野教授に打ち明けています。
浅野教授が指導していた院生は3人だけというのは許しがたいウソです。松隈佳之社会学研究科事務長は13年12月上旬から中旬にかけて、冨田研究科長名で、「浅野教授が指導している院生7人の自宅へ郵便で、『次年度浅野教授がいなくなるので、あなたの指導教授の変更について、専攻の教員も交えて話し合いの機会を持ちたい』と書いて、面談の日時を指定した手紙を送った」と浅野教授に認めています。ネットと携帯電話の時代に、大学が手紙で自宅へ連絡するというのは極めて異例です。この手紙はナジさんが浅野教授の弁護団に提供し、書証として裁判所に提出されています。
13年度の前期課程1年生(9人)は2年生になってから指導教授が決まる予定で、その中の何人かは浅野教授が指導する可能性がありました。そのほか、13年度に二回あった大学院入試(北京での入試を含む)の合格者(14年4月入学)で、前期・後期合わせて5人が浅野教授の指導を受ける予定でした。また、ロシアからの日本政府奨学金の大学院留学生(研究テーマは「外国人犯罪と日本の新聞」)も浅野教授を受入研究者として14年度に博士前期課程に入学予定でした。
小國弁護士が浅野教授への反対尋問での質問で述べたように、博論や修論の審査では「主査の他に2人副査がいる」わけで、浅野教授を指導教授としていない院生の中にも、副査(副指導教授がなるのが慣例)として浅野教授の指導を受けていた院生が数人います。
また、浅野教授の大学院の講義とゼミには、法学・文学研究科など他研究科の院生(現在同大法学部助教の望月詩史さんもかつての受講生)や立命館大学、龍谷大学など他大学の院生も単位互換制度を使って履修しています。
「浅野が指導していた院生は3人」というのは事実に反しています。
博士後期院生の研究テーマを「知らない」と言う無責任
冨田氏は13年度に浅野教授の指導を受けていた博士後期課程の院生だった矢内氏について、「現在の指導教授は誰ですか」と平方弁護に聞かれたのに対し、「竹内先生です」と答えました。「竹内先生の専門分野は何か分かりますか」と聞くと、「メディア学専攻の先生であるということと、漫画に関しては第一人者ということは聞いております」と返答しました。「漫画などのサブカルチャーが御専門なんでしょう」と聞いたのに対し、「そうだと思います」と答えた。
冨田氏はまた、「後期課程の日本人の学生(矢内さん)に関しましては、学術振興会の特別研究員として現在も研究活動を努めております」と答えました。平方弁護士が、矢内氏の研究テーマを聞いたところ、「専攻は違いますので、具体的な研究テーマまでは私は把握しておりません」と平然と答えました。平方弁護士が「テーマは『大規模災害とマスメディア報道―東日本大震災と福島原発事故を中心に』にということなんですけれども、お聞きになったことありますか」と聞くと、「今言われればそういうテーマだったかなと気がします」と無責任に返答しました。矢内氏は浅野教授の下で原発とジャーナリズムをテーマに博論を書くということで、13年9月に内定を得て、14年4月から学振の特別研究員をしていました。冨田氏の「矢内さんは今、学振の特別研究員をしている」という証言は事実に反しています。矢内氏は今年3月末で、2年間で研究奨励金(月額20万円、研究費約150万円)の受給はなくなり、学振特別研究員を終えています。通常は博論を書き終えていない場合、3年目も認められるのですが、なぜか2年で打ち切られているようです。
冨田氏は、矢内氏が14年4月2日に「受入研究者の変更届」(浅野教授から竹内教授に変更、浅野教授と協議なし)を学振に出した際、「浅野教授が変更届への署名、押印を拒否している」という虚偽文書を添付文書として提出しています。矢内氏の研究テーマも知らずに、矢内氏の違法な変更届に協力したことになります。
浅野教授が「発病」の原因との記述を「なんとも思わない」と表明
平方弁護士は「専攻の4人が書いたとされる配付文書(怪文書)を最初に見たのはいつか」という質問に、冨田氏は「10月30日の研究科委員会の場です」と返答。また、「配付文書の最後のところに、『原告が職場にいるので、突発性難聴、帯状疱疹を患った』とあるが、これを読んでどう思ったか」と聞いたのに対して、冨田氏は「そのときは特に何も感想はありませんでした」と回答しました。精神医学者の野田正彰・前関西学院大学教授は「帯状疱疹は主に接触で罹る疾病。ある人が職場にいるから、強いストレスで帯状疱疹になったというのは、『お前はウイルス』だと非難するのと同じで、大学の教員がこういくことを書き、それを出席者の30人が一人も咎めないのは信じられない」と陳述書で述べています。
冨田氏は怪文書に関し、11月13日の研究科委員会で、「配布資料に、浅野先生の名誉にかかわる記述があった。また、人事案件に係わる資料なのにすぐに回収しなかったことについては、お詫びしたい」と謝罪しています。小原健司弁護士は反対尋問で冨田氏にこの点を聞いたところ、「人事に関する配付資料に関しては、その場限りということで会議終了後、回収することになっております。そのことを失念して回収しませんでしたので、そのことに関して謝罪いたしました」と述べた後、目を見開いて、「ただし、前段の名誉云々での謝罪はしていない」と激昂して表明しました。浅野教授は11月13日の研究科委員会で冨田氏のこの謝罪発言を聞いて、メモをしています。
ナジさんの博論指導放棄を放置
冨田氏はインドネシアからの国費留学生ナジさんについて博論の指導を放棄していることを何とも思っていないことが分かりました。2014年6月に開催された社会学研究科委員会(議長は冨田研究科長)において、メディア学専攻が、ナジさんの身分については「2014年3月末に遡って単位取得満期退学」と提案し、承認されています。冨田氏は14年6月の研究会委員会で、「14年3月末に遡って単位取得満期退学」とした理由について、「後期課程のインドネシアからの留学生に関しては、経済的な理由で2015年3月に退学届が出ました」と述べました。これに対し、平方弁護士は「ナジさんはインドネシア政府が支給する奨学金で来ている留学で、経済的な理由で退学するというそういう退学届が出るということは考えられない」と指摘しました。平方弁護士は「14年4月から6月までは、誰が指導教授だったのか」と聞きましたが、冨田氏は「指導教官はいなかったと思います」と答えました。
ナジさんが「退学を希望」することはありません。博士後期課程の院生が課程を修了するのは博士論文を提出し大学から博士号を授与される時だけで、学部や院前期(修士)課程の場合の「退学」と、この単位取得満期退学は全く意味が違います。「単位取得満期退学」をした院生は「単位取得満期退学」から3年以内に博士論文を出して審査に合格すれば博士課程修了=博士号取得となるのです。また、再入学すれば、博論の提出期限が延びます。
ナジさんのケースでは、満期退学前に専攻内での「博士学位論文提出予備審査」(博論予備審査)に合格する必要があり、浅野教授が14年2月から3月にかけて、専攻会議で審議をしましたが、竹内教授らが「審査資格はすべて備わっているが、浅野先生が退職した後に、新しい指導教授を決めた上で再審査する」という不当な妨害しています。当時の社会学研究科事務室の大学院担当の職員で浅野教授と一緒に、予備審査の書類を揃えてくれた鈴木梨加さんは、「博論予備審査に合格しないと、単位取得満期退学後に一学期だけ復学しなければならないなどの不利益がある。資格審査に実際に合格しているのに、浅野先生の雇用問題を理由にして継続審査としたのは不可解だ」と言っていました。
また、ナジさんが単位取得満期退学となったということは、同大は、ナジさんが13年度に博士後期課程の3年次の単位を取得したと認定しているということになります。それでは、2013年度の私の「特殊研究Ⅰ」を採点し単位を認定した教員は誰なのでしょうか。博士後期課程では期末試験などはなく、院生が「前年度研究成果報告書(または論文作成進捗状況報告書)」を事務室に提出し、指導教授がその報告書をもとに、社会学研究科事務室に保管されている後期課程院生の「学籍・研究指導記録原簿」にある「指導所見」に指導記録を自筆で書き込むことで、単位の認定となります。この記録原簿は持ち出し禁止になっています。
指導教授が指導所見を事務室で書き込むのは、社会学研究科事務室から次年度の5~6月で、浅野教授は毎年、後期課程の院生に確認した上で、所見を書き込んでいました。事務室から14年4月以降、浅野教授に指導所見の記入の依頼はありません。そうすると、指導教授ではない専攻の教員が書いていると思われます。実際には指導していない教員が書いてはならないと思います。
矢内さん、ナジさんの場合は14年5月中旬に2013年度の指導所見を浅野教授が書かなければなりませんでした。浅野教授以外の教員が書いてはならないのです。博士後期課程の学生が受ける科目は「特殊研究」という科目だけで、「単位取得満期退学」の「単位」の認定は、指導所見での記述しかありません。つまり、指導所見は単位認定に当たります。浅野教授は14年6月以降、同大当局に、13年度のナジさんと矢内さんの指導所見の開示を求めてきましたが、大学側と小國弁護士らからは「代理人をとおせ」という返答しかありません。
2014年2月から3月の専攻会議(議長は教務主任の浅野先生)で、浅野教授が研究科事務室の鈴木梨加さんと打ち合わせを重ねて、ナジさんに関する「博士学位論文提出予備審査」(博論予備審査)を提案し、「査読論文、学会発表などの資格条件をすべてクリアしている。論文が載った学会誌は非常に権威があるアカデミックジャーナルだ」(池田謙一教授ら)と認定されたのですが、「浅野教授が退職してから再審査する」(竹内長武教授)という理由で、14年4月以降の専攻会議で「継続審査」扱いとされたようですが、その後、再審査の場は設けられていません。
平方弁護士は「満期退学から3年以内に博論審査を終えれば博士号が取得できる。ナジさんの期限は来年3月末だ。それをどうするのか」と聞いたのに対し、冨田氏は「確認してお答えします」と平然と答えました。「そうなんですか。博論審査に合格するためには、ナジさんは満期退学から2年半以内に専攻教務主任へ博論を提出しなければならない。ナジさんの場合、その期限は今から3日後の9月30日だ」と追及しましたが、冨田氏は「分かりませんので、確認してお答えしますとさっきから言ってます」と回答しました。博論の審査のプロセスを知らない教授が研究科長だったというのは信じがたいことです。無責任すぎます。
ただし、冨田氏は産業関係学専攻の博士後期課程教授に任用されてまだそう長くなく、博論審査の主査を終えたことがないのでしょう。冨田氏が所属する産業関係学専攻の大学院の歴史は社会学研究科・旧文学研究科の中でも最も新しい専攻です。大学院博士後期課程が設置されたのは冨田氏が赴任してきた2005年でした。浅野教授が追放された13年度までに、まだ博士号は出ていませんでした。冨田氏は博士論文の主査を務めて博士号を授与した経験がなかったのです。また、冨田氏自身は同大の修士号(経済学)を取得していますが、博士号は2013年までには取得していませんでした。
博士号を持たず、主査として博士号を出したこともない教員が、主査として博士号を4人に対して出している浅野教授を「大学院教授として不適格」という烙印を押したのです。
そもそも、大学院教授の定年延長制度が「当面の間の措置」として1951年にスタートしたのは、博論を指導できる官学(京都大学など)出身の教授の確保が目的でした。浅野教授に対し「査読論文がなく、アカデミック業績がない」「論文指導ができない」などと書き連ねた検討事項文書を作成し、浅野教授の定年延長反対を4人の有志会議で決めたまとめ役の小黒教授も12年4月に同大へ赴任し、13年度は大学院前期課程教授だけで、後期課程の教授には任用されていませんでした。しかも、小黒氏の前期課程任用は、浅野教授が13年1月の研究科委員会で提案理由を述べて承認されています。博論指導の経験のない冨田氏と小黒氏の2人が浅野教授は「学校法人同志社にとって不必要な大学院教授」と認定したのです。
浅野教授の反論文を「読んでいない」と言い放つ
また、冨田氏は、浅野教授が13年11月13日の研究科委員会の際に提出した小黒氏ら4人が渡辺教授と共謀して作成した「浅野教授定年延長 検討事項」と題した名誉毀損文書に反論した文書について「(全部に目を)通してません」と言い放ちました。冨田氏と被告代理人は、浅野教授に十分反論の機会を与えたと言ってきましたが、冨田氏が「読んでいない」のでは、他の教授たちもこの反論文を読まずに投票したのでしょう。驚くべき証言です。
研究科で「専攻で定年延長拒否」の前例があるという捏造
原告側は1975年以降に、5年間の定年延長をフルに使わず69歳までに退職した全リスト(被告が提出)のうち、死亡した人を除いて、58人を調査した結果、定年延長を希望したのに拒否された院教授は一人もいないことを調査で明らかにしていました。冨田氏は反対尋問で突然、この調査結果への反論として、2007年に65歳で退職した教育文化学専攻のO教授のケースを持ち出した。
冨田氏は「あなたが知る限りでいいんですが、これまでで社会学研究科で定年延長が提案されなかった教授というのはいましたか」と聞かれ、「はい。お二人いらっしゃいました」と回答。「その理由というのは何でしょうか」という問いに次のように答えました。
〈説明の簡単な方の先生から説明させてください。2011年に65歳定年で退職された先生がいらっしゃいます。その先生に関しては、私と同じ専攻でしたので詳しい事情を説明できます。専攻としてはその先生に定年延長をお願いするという形で話がまとまったんですが、その先生から65歳で定年退職したいと申出がありましたので、その先生の意向を尊重して私どもは定年延長の提案をいたしませんでした。もう一人の先生は、2007年に教育文化学専攻を65識で退職された先生がいらっしゃいます。問題を抱えてらっしゃった先生でしたので、その専攻の方がその先生に関しては定年延長を提案しないということを決められました。その先生にお会いになって、専攻の方としては定年延長を提案しないので、ここは65歳で定年退職されたらどうですかという形で説得に当たられました。簡単ではなかったんだけれども、説得したというふうに伺っております。ちょっとこれ、説明が長くなるんですが、浅野先生が最初に出された陳述書の中では、そのことの経緯に関しても割と書かれておりました。ところが、定年延長の退職の経緯を調査された新しい資料では、その先生に関しても御自分の方から定年延長を辞退されたとなってました。説得に当たられた先生に関して、大事な点なので、そこで確認してまいりました。どういう形で確認したかと言いますと、専攻としては定年延長の提案をしないことに決まったので、ここは先生の方から、もう6 5歳定年で退職すると申し出たらどうですかという形で説得されたそうです。ですから、そこの場面を見ますと、浅野先生が調査されてるように、御本人から申出があったという形になるだろうと思います。そういう形だと思います〉
冨田氏がここで言った2011年に〈65歳定年で退職された先生〉は実際は2012年3月に定年延長を辞退して退職したC教授です。C教授は革新系の教授で、悠々自適な生活を送りたいと申し出て退職しました。
また、〈2007年に教育文化学専攻を65歳で退職された先生〉と冨田氏が言ったのは、2006年3月に、前年に大学ハラスメント委員会でセクハラ加害を認定されて口頭での厳重注意を受けたO教授のことです。「定年延長しない」ことをある種の処分として、65歳で退職したケースです。
被害者の元院生の女性は処分がなかったのは不当だと学校法人同志社を京都地裁へ提訴、08年8月6日、学校法人同志社が150万円を支払うことで和解しました。女性の代理人は元大阪府知事のセクハラ事件も担当した大阪の雪田樹里弁護士らです。
この和解の事実は同月8日の朝日新聞京都市内版に掲載されています。
同志社大学のデータベースから取った朝日新聞記事を引用します。
[ 00037 2008年8月8日 朝刊 京都市内・1地方 024 00423文字
セクハラ損賠訴訟、元院生と和解成立 同志社大など陳謝 /京都府
指導教授からセクハラを受け、大学側に訴えたが適切な処置がとられなかったとして、元同志社大大学院生の30代女性が、元同大学院社会学研究科教授の60代男性と学校法人同志社に慰謝料など約1千万円の損害賠償を求めた訴訟が京都地裁(田中義則裁判長)で和解した。被告側が女性に陳謝し、和解金150万円を支払う。
和解は6日付。訴状によると、教授は04年2~6月、研究室や懇親会場で腰や太ももに触るなどの行為を繰り返した。大学は女性の相談を受けて05年春、教授に口頭で厳重注意。しかし原告側は「指導教授をすぐに変更させてもらえず、事実上の休学状態を余儀なくされた。教授が処分されなかったのも不当だ」などと主張していた。
和解条項では、男性が「不適切な行動で女性に不快な思いをさせた」と謝罪。学校法人は「事実調査などで女性への配慮を欠いたことについて陳謝する」としている。同大広報課は「個人のプライバシーにかかわることなのでコメントは差し控えたい」としている。 ]
冨田氏は教育文化学専攻の誰から「専攻会議で反対」の情報を得たのでしょうか。
浅野教授側は、O氏のことについては、プライバシー保護のこともあり、詳しく述べていませんでした。それをいいことに、「専攻会議でつぶした例」としてO教授のケースを持ち出したのです。07年と言えば、冨田氏は同大に赴任してまだ3年目でした。研究科の役職にもついておらず、O氏の退職の経緯を直接知る立場にありません。
浅野教授は当時、「週刊文春」報道もあって、同大がO氏のセクハラ認定を報じた新聞記事を見た支援者が、浅野教授のことだと誤解することもあり、O氏のケースに関心を持っていました。浅野教授によりますと、被害者の元院生は、同大の事実調査で女性への配慮を欠いたことと、同大が定年延長辞退を「処分」とするのは軽すぎると不満を持ったことが提訴の要因となったということです。
被告側は、二回目の定年延長を拒否された大学院ビジネス研究科のY教授のケースも持ち出していますが、浅野教授のケースとはかなり事情が違います。
裁判官が「専攻」決定に疑義
冨田氏は左陪席の築山裁判官が冨田氏に「(10月29日の小黒氏からの文書は)宛名が教務主任と浅野先生というふうになってるんですけども、証人の御理解としてはこれはどちらに提出された文書というふうな御理解なんでしょうか」と聞かれたのに対し、「メインは浅野先生に提出されて、恐らくコピーを事務室に提出されたんじゃないかというふうに思います」と答えました。裁判官はさらに「事務室に提出されたものが証人のお手元に届いたと、そういう経過ですか」と聞きました。冨田氏は「はい」とだけ答えました。小黒氏が4人を代表して浅野教授の郵便受けに入れた文書を、「専攻決定の研究科長への通知」としている被告側の主張が崩壊した瞬間でした。「専攻」で浅野教授の定年延長は否決されたというのはウソであることが明白になりました。
研究科委員会での「3分の2」を可決要件とする無記名投票による議決も適正手続きに反し、不当で無効であることも証明されました。
TA使い過ぎの不当な非難
冨田氏は、浅野教授がTA予算を使い過ぎたと怪文書を前提に証言しました、これも小黒氏ら4人の怪文書に出てくる捏造でっち上げです。TA賃金は院生が被告から受け取っている収入です。原告がTAを使っているわけではありません。被告と院生の労働契約の問題です。院生の中で最もTA報酬を得ていたのは渡辺教授の講義やゼミを担当していたTAの院生です。
メディア学専攻のTAの使い方はかなり問題で、矢内氏は大学当局に改善を求め、浅野教授が改革を進めてきたのはよく知られています。例えば、竹内教授の院生は、京田辺キャンパスで1・2年生のゼミがあったころ、同キャンパスに行ってもいないのに謝金と交通費を受け取っていました。「竹内先生のTAほど楽な仕事はなかった。授業の前後に10分弱働くだけで、90分の賃金をもらうのが普通だった。今日は何もないから帰ってもいい」(元院生の他大学院生)。メディア学専攻のTAを正常化したのは矢内氏と浅野教授です。
冨田氏が「専攻決定にみんな影響される」と認めた
冨田氏は尋問で、次のように証言しています。裁判所が作成した冨田氏尋問調書から引用します。聞き手は小國弁護士です。
〔―なぜ、この時点で浅野さんには退席してもらうことになったんですか。
これは、定年延長に関する一般的なルールを決めてるわけではなくて、メディア学専攻と浅野先生からそれぞれ主張を聞きましたと。じゃあ、どうやって私たちは議決したらいいんでしょうかという議論になりました。その中で、メディアがもう定年延長しないと言ってるんだから、もう投票せずにそのまま決めたらいいんじゃないかという意見も確かに少しはありました。 〕
また冨田氏はこう証言しています。
〔―どうして原告の定年延長について審議することにしたんですか。
メディア学専攻が浅野先生の定年は延長しないということに対して、浅野先生は納得していない、強く抗議しているということが、浅野先生の一連の行動からは分かりました。これまでの研究科委員会の定年審議のやり方からしますと、各専攻が協議されて定年延長をしますということが研究科委員会に提案されますと、専攻の方が慎重に協議されてそういう結果になったんだからそれを尊重しましようというようなことはあったと思います。 〕
冨田氏は正直に、研究科委員会の31人の大学院教授は、冨田氏の「メディア学専攻で浅野教授の定年延長拒否が決まった」というウソに影響されて、投票で定年延長拒否が議決されたことを求めています。実際は「怪文書4人組」対浅野なのに、「メディア学専攻会議決定」対浅野個人の対立構図をでっち上げた冨田氏の不法行為があったからの否決でした。研究科委員会の「手続き」に同志社の定める就業規則違反にも当たる不法行為があったのです。
また、浅野教授が起こしている対冨田裁判(神戸地裁第4民事部)の被告準備書面(2)5頁には、専攻会議の決定に関し、小倉氏が13年10月29日に小黒氏が手渡した「審議結果通知書」という浅野教授主任宛の一枚の紙だけでなく、「メディア学専攻から」経過の説明があったと書いています。
〔 被告は,同文書をもって,臨時専攻会議における審議決定が正式な決定ではないと認識する可能性はないと主張し,その理由として,「メディア学専攻から被告に対し,臨時専攻会議の決定は利害関係人である渡辺教授及び原告を除いて専攻会議を行った結果であるとの説明があったという状況で,その決定内容と反する内容である」ことを,その理由として主張している〕
この裁判でも冨田氏の代理人は地位裁判の被告同志社の代理人である小國弁護士です。これは地位裁判での冨田氏の法廷証言と全く違います。冨田氏は「通知文書以外は、何も聞いていない」と断言していました。
時間があれば聞くべきだったこと
この日の尋問は時間が制限されていたため、冨田氏への「セカンドクエスチョン」を聞く時間がありませんでした。冨田氏には「あなた自身が11月13日に提案した浅野教授の定年延長議案について、あなたは賛成したのか、それとも反対したのか」と聞くべきでした。「あなたが提案したということは、あなたは浅野教授の定年延長を認めるべきだと思ったからではないか」「あなたの提案が否決されたということは、あなたは不信任されたことにならないか。政界なら総辞職になるのではないか」と質すべきでした。
冨田氏は11月13日の研究科委員会の投票の開票結果を浅野教授にいまだに伝えていません。この裁判の前にあった地位保全の仮処分の過程で、被告代理人が書証で明らかにしたのです。委員会の議事録がありません。投票した際の投票管理委員は誰だったのかも不明です。被告代理人が挙げている開票結果の数字が真実かどうかを証明するものはありません。
冨田氏は証言で何度か院生やゼミ生の「指導教官」という表現を使いました。冨田氏の前任校が国公立大学だったためか、教授会などでもいつも「教官」「退官」と言っていたようですが、新島襄が「官ではない民の学園」として創立した同志社大学に「教官」はいてはいけないのです。冨田氏は新島精神を分かっていません。
浅野教授は証言の最後に、「いまほどジャーナリズムの役割が重要な時はない。伝統ある同志社の新聞学専攻で、一日も早く学生と共に、ジャーナリズムの再生のための教育研究活動に戻りたい」と訴えました。
冨田証言の2カ月後にナジさんが再入学願を同大へ提出
浅野教授が追放された時、博士後期課程3年生だったナジ・イムティハニさん(14年6月の研究科委員会で、私に相談なく14年3月末に遡って「退学」と決定)について、2016年10月末から大きな進展がありました。ナジさんは2016年11月29日に同大への「再入学願」を提出したのです。冨田氏が「知らない」と言い放ったナジさんの博士論文の指導教授の問題が出てきました。ナジさんはインドネシア教育文化省の奨学金で同大へ留学していた学生で、東京にあるインドネシア共和国大使館の幹部が同大にナジさんが博士号(メディア学)を取得できるよう教育してほしいと要望したことで、外交問題にもなっています。
被告側は、ナジさんについてだけ、浅野教授が「退職」した後、「連絡不能で、困っているが、不利益を被っているかどうか分からない」と毎回留保してきました。つまりナジさん以外には困っている学生は一人もいないという言い方をしてきました。
冨田氏とメディア学専攻の教員たちは、そのナジさんの博論指導を放棄していることは、証人尋問で明るみに出たのですが、ナジさんのことを全く知らなかった松岡敬学長(今年4月就任)らの大学執行部は、事態の深刻さを認識して素早い対応をしているようです。大学執行部が村田体制から一新されたこともいい影響を与えています。
同大がナジさんに対する態度を大きく変えたのは、東京都品川区にある在日本・インドネシア大使館のアリンダF.M.ザイン教育文化部長が10月下旬、同大へ出向き、社会学研究科の松隈佳之事務長らを含め大学の関係者数人と面談して、ナジさんが期限内に課程博士号を取れるように指導してほしいと要望したからです。
アリンダ部長と面談した松隈事務長は、ナジさんの博士学位取得の可能性について、 ①ナジさんは同大にあと2年間、在学することは可能、②ナジさん次第で ハードルは高いが、博士学位を取得する可能性はある―と述べました。アリンダ部長はナジさんに電話とメールで、大学とよく相談するよう指示。これを受け、ナジさんは研究科事務室へ博論を完成させたいと連絡しました。松隈事務長は11月9日、ナジさんにメールで、「同志社大学にはあと2年間、在学することが可能です。(社会学研究科での審議の結果、)再入学が認められた場合、再入学後にまず、課程博士の予備審査の合格を目指していただくことが現実的な方法」と伝え、再入学願のファイルを送りました。ナジさんは11月29日、「再入学願」を事務室に送付し、博論を完成させたいと表明しました。浅野教授が本裁判に負け教授職を失った場合、ナジさんの博士号取得がほぼ不可能になります。国際主義、キリスト教主義を掲げる同志社にとって取り返しのつかない汚点となります。
ナジさんの再入学が認められれば、ナジさんは2019年3月までに博士論文審査に合格すれば博士号を取得できます。2019年は私の「70歳定年退職」の時期と同じです。
ナジさんの再入学で、同大大学院メディア学専攻博士後期課程の教員スタッフの怪文書作成者4人(竹内長武・佐伯順子・池田謙一・小黒純各教授)はナジさんにどう向き合うのでしょうか。
以上、冨田氏の証人尋問についての報告でした。
証人尋問後に自主ゼミ主催のシンポ
裁判報告・シンポで浅野教授の復職を支援
京都地裁での証人尋問の終了後の27日午後5時半から、裁判報告会と自主ゼミ主催の第二回シンポジウムが同志社大学今出川キャンパス・良心館102号教室(RY102)で開かれ、 約50人の学生、市民が参加しました。
このシンポの模様は、「紙の爆弾」12月号に〈私的運動史から見た日本のメディア〉(構成・浅野教授)と題して掲載されています。同誌の冒頭グラビアにも中山千夏さんの写真が載っています。また、浅野教授が「週刊金曜日」10月14日号の「人権とメディア」に〈記者の「大卒」採用条件をなくせ〉という見出しで記事を書いています。
報告会では、小原健司弁護士が裁判の経過を説明し、2012年に文学部哲学科を卒業した鶴見太郎さんが次のように発言しました。
「私は浅野先生の新聞学原論という授業、社会学部以外の学部・学科の学生でも履修できる科目なんですけれども、その講義を受けて、まだこういう先生が大学に残っているんだと、すごく感動したのを覚えています。
私が卒業した、次の年に、私は東京に引っ越して、いまは東京に住んでいます。その時に、浅野先生の不当解雇をされそうだということを聞いて、そしたら渡辺武達氏たちのグループによって、追放されてしまったという。東京からなので、裁判にしても毎回来たいなと思いつつも、なかなか行けなくて、でも、今回は証人尋問、一番大切なタイミングなので、仕事を別の人に代わってもらい、1日だけ休みを取って、駆けつけました。
証人尋問を傍聴した感想なんですけれども、本当に冨田安信氏はひどい。大学教授、研究者以前に、人としてありえない。嘘だらけ。だから私はすごく許せなくて、最後、彼が弁護士たちと一緒に裁判所から外に出るときに、「あなたが院生や学部生に対して行なった恫喝や恐喝は絶対に許さない」ということを言ったら、ほくそ笑んでいました。そういう人間を許しておいたらいけないと思います。同志社の正規の教員や職員は、30代で年収が一千万円以上になるのです、こんなの、普通だったらありえないです。そういう人間に私たちが借金を背負いながら納めた学費で、ああいう人たちに給料を出していると思うと、はらわたが煮えくりかえってしまう。なんとしても、浅野先生には裁判に勝ってもらい、彼や彼女たちを同志社から追い出してやりたいなと思います」
中山千夏さんは基調講演の最初に、「中山さんは講演の冒頭、「今日の裁判を傍聴してみて、『大学は行かなくてよかった』と思った。こんなにひどいところではね。つまり、我々の感覚を言葉にすると、いじめ。富田さんは、浅野さんが嫌いだから追放した、意見の合わないやつを叩き出した。大学の教授というのはあの程度のレベルなのか。それは今日の裁判を聞いていただけで全部わかる。どっちが悪いかという話になると、我々の感覚からすれば、向こうが100パーセント悪い。しかも大学は仮にも学びの場で、真実を追求し、学問を大事にしなければならないところでこんなことをやっている。これは権力構造のあるところならどこでもそうだ。我々の感覚からすれば、勝ちだが、法律的にどうなるかはわからないので、法律に詳しい方が力を込めてやってくれればと思う」と話しました。
中山さんは「ここだけではないが、大学が機能していない」と述べ、同大キャンパスの印象については「あまりに建物などがきれいだ。立て看一つない。これでいいのだろうか」と語りました。中山さんは28日未明まで学生たちと懇談してくれました。中山さんの「ガンバレ!」というエールに心より感謝しています。
証人尋問を傍聴した支援者の感想
以下は、9・27裁判を傍聴した支援者の感想です。
〔 わたしは、今年2016年初めから、浅野健一先生の裁判を微力ながら支援させていただいており、はじめからすべてを知っているわけではありません。当日、証言台に立った浅野先生と冨田安信教授の証言を緊張しながら傍聴しました。浅野先生御自身は、いくどか裁判長に制される場面もありましたけれど、素人目に、証言内容の瑕疵は見受けられず、幾分か余裕があるように見えました。たいして、冨田教授は、先生側の弁護士、とくに、平方かおる弁護士に、証言についてきびしい追及を受けるなどしており、毅然とした態度をしていたとは言えなかったでしょう。このような二人の態度を見れば、わたしだけでなく多くの人にも、この裁判の行く末に、あかるい希望をもてると思います。この裁判にはやく終止符を打ち、先生がふたたび同志社大学の教壇に立たれることをつよく、つよく望んでいます。 〕(自主ゼミ幹事・大内健史さん=2016年同大文学部哲学科卒)
〔 息子が浅野ゼミで4年間学んで、今、東京でキー局に勤めています。冨田さんは、みんなで、浅野先生をいじめていることを今日平気で話しました。浅野先生をクビにしたことに怒っている学生は少なくありません。私の息子もそうです。浅野先生の指導を受けたから、報道界で働けているのです。現役の学生たちの多くが浅野先生の教壇復帰を求めて署名をしています。同大で日本マス・コミュニケーション学会が開かれた15年6月、現役学生や卒業生らでつくる「浅野先生を守る会」の学生たちと一緒にビラを配りました。その時、小黒教授が私たちの写真をカメラで撮りました。情けないことです。浅野先生の教育や研究について、どうしてそれが教授としてのレベルにないなどといえるのでしょうか。先生の仕事は市民にとって大事です。大学はトップが代わったのですから、前の学長たちの誤りを認めて、浅野先生を復職させるべきです。 〕(2004年卒の元ゼミ生の母親)
〔 浅野先生 先日の裁判お疲れさまでした。久しぶりに傍聴に参加させていただきましたが、長時間にわたる本格的な証人尋問は初めてのことで、貴重な経験ができたことを感謝しています。
私が参加した感想ですが、私はしばらく傍聴に参加できなかったこともあり、特に被告側弁護士の質問の意図がわからず混乱しました。意味の無い質問をただただ繰り返しているだけに見えたからです。
一方で、浅野先生側の弁護士さんらが、富田安信氏の発言の矛盾点をジリジリと追い詰めていく様子は圧巻でした。(架空の「臨時専攻会議」の存在やインドネシアからの国費留学生ナジさんの「単位取得満期退学」理由の矛盾点など)
私が最も気になったのは、富田氏が「浅野先生がお辞めになったことで、学生らの間に特に混乱や問題は起こらなかった」と発言したことです。私は、同志社大学の学生ではなく、一市民として浅野先生の講演を聞いたり、著書を読んだりしてきましたが、浅野先生の冤罪や実名報道主義の問題点に関する考えには大きな影響を受けてきました。そのため「特に問題はありませんでした」という彼のひと言は許せないと思いました。
帰り道で、傍聴を続けてこられた支援者の方に感想を聞きました。彼女はきっぱりと、次のように答えました。「浅野先生は勝つね。勝訴しかありえない」と。その言葉を聞いて、私はとてもうれしかったです。まだしばらく大変な闘いが続きますが、一日も早く同志社大学大学院の教授として教壇に戻られ、本来の活動に専念できることを祈っております。 〕(京都府の一市民)
〔 冨田氏の証言が嘘とデマとペテンのオンパレードで開いた口が塞がりませんでした。本来浅野先生しか開催権限のない、「臨時専攻会議」を浅野先生抜きで誰が開く事を決めたのかという平方弁護士の質問に、冨田は小國さんと言って一同唖然としているのに気づき、小黒先生と言い直した。完全な出鱈目発言です。小黒は当時院教授1年目で、博士後期課程教授ではありませんでした。定年延長は本来、博士論文を指導できる院教授を確保するために1951年に当面の策として導入されたものが65年も続いているものです。どうして院博士後期教授でない小黒氏が、後期課程教授の佐伯氏や竹内氏らを差し置いて偽「臨時専攻会議」の開催を主導できたのでしょうか。渡辺氏の後ろ盾があるからでしょう。
ナジさんが経済的な理由で退学をしたというウソも許せないものです。インドネシア共和国政府から国費で同志社の浅野先生のところに学びに来ていたナジさんは自らの意志で退学したのでなく、冨田らによって「単位取得満期退学」の形で追放されたのだと思います。学籍があると、浅野先生の指導が必要になるので、裁判対策で放校したのです。
学部生に対しても陰湿な脅迫と恫喝で浅野先生からの離反をせまったことも容易に想像できます。
かつて、矢内さんが「黒幕は冨田。冨田は渡辺よりも酷い」と吐露したと聞き及んでいますが、彼女がそう言った理由が本日よくわかりました。
裁判所から冨田氏が松隈事務長、小國弁護士らと出る時に私は冨田氏の写真を撮り、冨田に「貴方が浅野先生、院生、学部生にしてきた卑劣な行為の数々を決して許さない!」と糾弾しました。そうしたら、なんと冨田氏は、ほくそ笑んだのです。私が三回生の時、渡辺氏の授業に潜り、終わったあと渡辺氏のところに行き、「メディアを研究する学者がメディアを使って一人の良心を社会的に抹殺しようと企んだ事について如何お考えですか」と尋ねたことがありました。すると、渡辺氏は冷や汗を拭き取りながら、な、なんのことか私にはわからないなぁ、ともごもご言って逃げていきました。渡辺氏にはまだやましさや負い目があったからこそそのような醜態を晒してしまったのでしょう。しかし、冨田氏には羞恥も罪悪感のかけらもありませんでした。あの悪意に満ち満ちたニヤついた顔を私は一生忘れる事はできないでしょう。写真添付します。
次に判事についてです。堀内照美裁判長は本証人調べにおいて、浅野先生や平方弁護士に批判的な発言をしており、公平な、正義と人道に基づく判決をされるか非常に不安です。彼女の事を調べてみましたら、医療裁判では患者側に有利な判決を言い渡していますが、誤認逮捕され死亡してしまった男性の裁判では警察の過剰な制圧だけは認めたが、死との因果関係は否定し、損害賠償も微々たるものでありました。後に高裁で死との因果関係が認定され賠償額も大幅に上げられました。また、京大教職員ユニオンが起こした不当な賃金策定に関する裁判ではユニオン側の主張を全面的に退けています。国の決めた事には従うのが公務員の務めだ、などと言う事を述べた様です。
右陪席の高松みどり判事は終始無表情で心ここに在らずといった感じ、見るからに無関心といった風でこれ又心配です。
左陪席の渡邊毅裕裁判官のみが、冨田氏に質問しました。まだ、新米判事の様で真剣に審理を見守っている様でした。彼に対してだけは、堀内裁判長は母親の様な目で接している印象でした。原告側に対しては冷たい目でしたが・・・。
渡辺氏らによる紀要、評論社会学の回収策動に関するくだりでは、本訴訟と何の関係があるのかよくわからないという顔を堀内裁判長はしていました。冨田の明らかに偽証罪に問えるレベルの数多のウソに対しては表情を変えることも、突っ込んで質問することもありませんでした。 〕(2013年同大文学部哲学科卒、鶴見太郎さん)
〔 ◎浅野教授の教壇復帰を求めます
9月27日、京都地裁で開かれた浅野健一同志社大学大学院教授の地位確認訴訟の証人尋問が行われた。浅野さんと彼を不当解雇に追い込んだ冨田安信・前社会学研究科長の二人が証人として出廷、裁判としては最大のヤマ場だった。
前日、東京高裁で行われた新潟水俣病3次訴訟控訴審の傍聴を終えて、この日初めて浅野氏の裁判を傍聴した。30―40人程度入ると思われた傍聴席は浅野さんの支援者でいっぱい。応援の学生らの姿に交じり、見覚えのある顔・中山千夏さん(作家)が秘書らしき女性と傍聴席に坐り、にこにことしている。小柄だが存在感があり法廷に和やかなオーラを漂わせた。
さて問題の法廷。浅野教授の主尋問は予定通り進んだようだが、裁判長はどこか抑制的。何かにつけて弁護団の質問や浅野教授の証言に介入、「もう解った。それ以上説明しなくともよろしい」という姿勢を露骨に見せ、早く終わらせたいという表情をプンプンと撒き散らしていたように私には見受けられた。裁判官席に向かって右、主任の裁判官が尋問したときは裁判長としきりに相談していたが、そんな姿を見せ付けられると裁判所は判決を書く気でいるのかなと思わされる。
問題は冨田証言。冨田教授は学生や同志社卒業生らに聞けば在学中の学生、研究生らを奨学金打ち切りとか支給停止とかいう脅しをかけて浅野教授の影響力を削ぐことに全力を傾けたという。いわゆるアカハラということだろう。立派な報道研究論文を残した浅野教授門下生のY研究生を裏切らせたのも冨田氏ということだ。この日の同氏の証言は白々しかった。「嘘言うな!」と傍聴席から投げかけたくなるようだ。主尋問、反対尋問ともに肝心の点は避け、あるいは切り抜けようとした。
これまで弁護側が提出した証拠、学生らの要望書、浅野教授支援の署名などを挙げれば、浅野教授の正当性と、対極にある冨田教授の果たしたどす黒い約割は明白だが、この日の証言と反対尋問の中で、それが完膚なきまでに証明、立証されたか、あるいは冨田氏本人をして立ち往生させるとか、ゲロさせられたかを考えると疑問が残らないでもない。その上、裁判所が原告の立証を素直に評価、判断してくれるかどうかは別の問題。いいところまで来ているとは思えるが油断は禁物だと思う。浅野教授支援の輪を広げ、最終準備書面への立証が尽くされることを期待したい。
口頭弁論後、同志社大学で行われたシンポジウム。中山千夏さんの時代に流されない確固とした立ち位置が素敵だった。会場で私は発言を求め、京大生4人の無期停学処分の撤回を求める署名を訴え、署名用紙を回しお願いした。20人ほどの出席者が署名をしてくれた。「事務所で(署名簿を)埋めて送るわ」と約束してくれた人がいた。〕(新潟市・元地方紙記者)
9月23日に東京で開かれた人権と報道・連絡会の定例会で、弁護団長の武村二三夫弁護士が熊本の松橋再審事件で報告しました。定例会の最後に、武村弁護士と浅野教授が地位裁判について報告しました。
武村弁護士は「裁判では、1951年から2014年までに、本人が希望しているのに、専攻や教授会で定年延長が拒否されたケースは一つもないことを調査で証明した。次年度の担当科目も決まり、多数の学生を指導していた浅野教授を、特段の事由もないのに、解雇したのは不当で、裁判に勝って浅野教授に教壇に戻ってほしい」と述べました。
〔 私は、学校法人同志社(水谷誠理事長)による “だまし討ち”不当解雇に抗い、2014年2月3日、京都地方裁判所民事6部に地位確認訴訟を起こした。また、15年3月には、京都地方裁判所民事3部に、同僚の渡辺武達教授(2015年3月70歳で退職、名誉教授)グループの5人(渡辺氏と、私を「不良教授」と決め付ける怪文書を13年10月30日の大学院社会学研究科委員会=院教授会=で配付した小黒純・竹内長武・佐伯順子・池田謙一各教授)を相手取り名誉毀損訴訟を起こした。
また、5人と共謀して研究科委員会で規定にない「可決要件3分の2の無記名投票」で私の定年延長を拒否する議決を強行した冨田氏(社会学研究科産業関係学専攻教授、労働経済論)を被告とする損害賠償請求訴訟を神戸地裁民事4部に起こしている。裁判については支援会のHPを参照ください。http://www.support-asano.net/index.html
私が博士論文を指導していた院生の矢内真理子氏は13年11月、「浅野先生の定年延長問題で、一番のワルは冨田だ」と公言していた。渡辺氏と冨田氏の接点は特にない。冨田氏がなぜあんなに乱暴な方法で私を完全追放したのか、ずっと疑問だった。渡辺氏に何か弱みを握られていたのかとも思っていたのだが、地位裁判の審理の中で、冨田氏は村田晃嗣同志社大学学長(15年末の学長選で完敗し、今年3月退任、法学部教授)が私の追放の背後にいたことが分かった。
村田氏が共同通信の会田弘継・特別編集委員(当時、元論説委員長、現在青山学院大学教授)に「浅野は同志社大学にはいらない。本当に困っている。何とか共同通信(72年から94年までの私の勤務先)で引き取ってもらえないか」と相談していた。ドイツ通信社(DPA)東京支局の神林毅彦記者が六月七日、京都地裁へ出した陳述書(五月三一日付)で明らかにした。
村田氏の会田氏への発言は、彼が学長に就任した13年4月から、私の追放が確定的となった13年10月28日の間にあったと思われる。渡辺グループと村田氏は同年8月頃から、被告代理人弁護士の助言を受けながら、秘密裏に謀議を進めていたと思われる。その後、尾嶋史章・副学長(当時、社会学専攻教授、広島大学で村田氏と同僚)を通じて、冨田氏も巻き込んだ。村田氏が深く係わっていたことが分かった今、ますます、地位裁判に負けるわけにはいかないと思っている。
浅野教授は尋問を終えて次のように感想を述べています。
〔 9月27日は私の68年の人生の中でも最も大きな日の一つになりました。ウィークデーにもかかわらず、30人以上の方々が傍聴してくれました。新潟、東京、伊東など、遠方から京都に駆けつけてくださり心より感謝します。夜の長丁場のシンポにも多くの市民が参加してくれました。中山千夏さんは講演の最初に、私の裁判のことや大学のあり方も取り上げてくださり、私は元気をもらいました。3人の裁判官は、多くの市民が傍聴してくれたことで、人民が監視していると意識したと思います。
「専攻」で私の定年延長が否決されたというのはウソです。後は、研究科委員会での「3分の2」を可決要件とする無記名投票による議決など適正手続きに反し、議決は不当・無効であることを証明すれば、私はこの裁判に勝てると思います。
定年延長をめぐる日大など他大学の判例でも、70歳定年は慣行になっており、定年延長拒否は不当という判決が出ています。同大では2回目の定年延長を拒否されたビジネス研究科のY教授が敗訴していますが、私のケースとは事情がかなり違います。私には院に7人、学部に40人以上の学生が14年度以降も私を必要としていました。70歳まで教授を続ける予定で生活設計を立てていたのです。その学生たちは私の指導を受けられず、様々な困難に直面しました。期待権を強調した最終準備書面をと願っています。 〕
最後に、浅野教授が「冨田証言を聞いて思ったこと」と題した見解を載せます。
〔 地位裁判で、被告の学校法人同志社は代理人弁護士以外、誰も被告席に座らず、証人も冨田氏しか申請しなかった。大学院教授の定年延長は、学校法人同志社が必要な隠居伊集かどうかを判断するのだから、法人または大学の総務人事部門の責任者が被告席に座るべきだし、証人になるべきだ。
地位保全の仮処分申し立ての審尋の段階から、冨田氏と松隈事務長の二人だけしか傍聴していない。
大学内の研究科長、学部長は教員、学生の権利を守るのが本務で、教員を解雇に追い込むような権限はない。雇用する側、経営者でもないのに、冨田研究科長が私を不良教授だと決めつけて、小黒氏ら六人と共謀して、暗黒裁判で、浅野教授を追放したのは万死に値する。
冨田氏は13年10月30日の研究科委員会で、私の定年延長を研究科長、議長として提案したのに、その提案理由、推薦理由を述べていない。私の次年度の担当科目も明らかにしていない。私の定年延長の可否を決めた11月13日の投票で、賛成票を投じたのか、それとも反対・棄権だったのかを明らかにすべきだ。
冨田氏は、メディア学専攻会議で私の定年延長が拒否されたと断言している。それをどうやって確認したのか。私は13年度の専攻教務主任で、専攻会議では決まっていないと冨田研究科長に何度も伝えている。
私の定年延長が専攻会議で否決されたというなら、なぜ私の定年延長を研究科長として提案する必要があったのか。
大学執行部と弁護士から、11月13日の研究科委員会で投票で、私の定年延長を拒否するという議決を行うよう指示があったと考えられる。専攻4人の会議だけでは、裁判になった場合、不利なので、研究科委員会で議決をしたのだ。冨田氏は、11月13日夜、矢内氏ら12人との団交で、裁判になることは覚悟していると数回言明しました。
矢内氏の目撃情報によると、小黒氏らは、11月初めの連休中に、弁護士が私たちのために働いてくれているから安心するようにという連絡を11月6日前後にしている。その弁護士が小國隆輔氏であることは間違いないだろう。小國氏は大学の自治に不当に介入しており、懲戒請求の対象だ。
私の解雇は、大学執行部、弁護士らが13年8月頃から周到に準備して遂行したのです。渡辺グループだけで、これだけの無法、蛮行は不可能でしょう。
私にとって、不幸だったのは、大学院ビジネス研究科の山口薫教授が2回目の定年延長を拒否されて起こした裁判に敗訴したことだ。大学執行部、冨田氏らは、この裁判勝訴で、浅野教授追放が可能と判断して、裁判を念頭に、騙し討ち、闇討ちの追放謀略を実行したのだ。この裁判では、渡辺グループと冨田氏だけでなく、同志社大学・村田執行部(当時)の犯罪を暴かなければならない。
付記:以下は矢内真理子さんが2013年11月6日に、私と「浅野先生を守る会」(矢内会長)ら浅野支援関係者に報告したメモです。
[ 11月6日(木)AM10時頃
渓水館305号室(KS305)のPCで作業しようと思ったところ、(入口からみて手前のPC)Gmail、佐伯順子先生の受信箱の直近50件の見出しが表示された。そのうち3件が小黒氏純氏からのメール。
未読は約3300件
・6日9時53分、小黒氏から「それは心を痛められたんですね…」(未読)
・日付は覚えていないが、小黒氏から「この3連休(11月初旬)の間にも、弁護士さんに忙しく動いてもらっています。…」
・もう一通は、内容を覚えていない
※たぶん佐伯教授がこのPCで作業したのは11月5日の夜と思われる。小黒氏からのメールは6日9時53分のもの以外は既読。
・浅野先生からの教務主任としての連絡(11月3日)も表示されていた。既読。推測するに、表示されていた50件は少なくとも11月6日~3日のメールであると思われる。 ]
ここで小黒氏が言及した「弁護士さん」は、今回の法人側の代理人の弁護士であろう。10・30配布文書(怪文書)に関して、私が刑法・民法上の問題があると通知したことで相談したと思われる。弁護士と相談しながら、私を解雇したのだ。大学のトップが絡んでいたからできたのだろう。 〕
(了)