裁判長が被告に定年退職者の人数で説明を要請 浅野教授の地位確認訴訟・第8回弁論――被告捏造の疑い、次回は6月18日
15年6月14日に同志社大学で開催された日本マス・コミュニケーション学会のワークショップと会員への地位確認裁判支援のアピール活動について、原告の浅野健一教授が報告します。
6月14日に同志社大学で開催された日本マス・コミュニケーション学会(旧・新聞学会)で「警察リークと犯人断定報道―袴田事件から氷見事件まで」をテーマにしたワークショップが行われた。問題提起者は人権と報道・連絡会事務局長の山際永三さんで、司会は私が務めた。
ワークショップでは、1966年に静岡県でみそ製造会社専務一家四人が死亡した殺人事件で死刑が確定、静岡地裁が昨年3月27日、再審開始を決定した「袴田事件」の捜査段階における報道を検証した。地裁決定の日に釈放された袴田巌さんの姉、袴田秀子さん(浜松市在住)が参加した。秀子さんは翌日、龍谷大学法学部で《「法律の力」で痛めつけられた人生―姉として冤罪と闘った49年》と題して私と一緒に講演した。秀子さんから2日間、半世紀近い闘いの経験を聞いた。
秀子さんによると、巌さんは拘禁症から、徐々に脱している。「家で落ち着けることができ、自分の立場を知るようになった。散歩にも出かけている。学校の同級会にも出た。最近は支援者に『ご苦労さまでした』と言うようになった」
巌さんは6人きょうだい(兄二人は死亡)がいる。巌さんが突然逮捕された後、弁護士を頼むために20万円を出し合った。秀子さんは、「巌さんを支援していた両親が弟の逮捕後に病気で亡くなった後、私が支援してきた。東京拘置所に収監されてからは、毎月面会を続けて励ました。死刑が確定した後、面会を拒否する期間があったが、差し入れは欠かさなかった。会社員をしながらの支援だった」
秀子さんは東京に行っても観光をしたことがなかった。一昨年、東京の支援者に誘われて初めて上野動物園、東京タワー、浅草に行った。DNA型鑑定で有利な結果が出て、肩の荷が下りて、初めて観光する気になった。秀子さんは「世間を狭くして生きてきたから、どこも行ったことがなかった。弟の救援が私の人生だった。私自身、お酒がないと眠れなくなり、苦しい時期もあったが、克服できた。弟の無実を信じ、やってきた。亡き母のためにもがんばっている」と振り返る。
京都を訪れたのも、15年3月に弁護士会に呼ばれて講演して以来、2回目。金閣寺へ行っただけだった。今回、京都で宿泊したホテルの近くの二条城と、龍谷大学の教員の案内で三十三間堂を拝観した。
ワークショップでは、山際さんは国立国会図書館で、当時の全国紙、静岡新聞、中日新聞の記事をコピーしてワークショップの会場で配布した。毎日新聞の記事は本数、スペースともに、圧倒的に多く、犯人視報道ばかりだった。
毎日は1966年8月18日朝刊で、《従業員「袴田」に逮捕状》などという大見出しの記事で逮捕を“スクープ”した。8月12日付静岡版トップに、「駿遠週評」「“科学捜査”の勝どき」という見出しの佐々木武惟(たけこれ)静岡支局長(〇七年に死去)の署名入り記事(七段)が載っている。佐々木氏は《地元当局の地道な努力》を持ち上げる一方で、袴田さんを《情操が欠け、一片の良心も持ち合わせていない》と攻撃した。
山際さんは、佐々木氏が「元毎日新聞社会部長」の肩書で出版した『事件記者―スクープにかけた30年 』(1980年、グリーンアロー・ブックス)の中の記述を取り上げた。佐々木氏が同書を出版したのは同年5月。同年11月、最高裁が上告を棄却し、死刑判決が確定している。
同書によると、「シンパ刑事」の捜査員が袴田さん逮捕の前夜、支局の三階にある支局長宅まで来て、翌朝の逮捕を逮捕時の警官60人の配置図まで書いて伝えてくれたという。県警の刑事への連日の「夜討ち」で入手した「逮捕状をとった」「袴田あす逮捕」リーク情報を確認するため、東京本社社会部を通じ、警察庁の幹部に警察庁へ当てさせたという記述もあった。《しばらくして、警察庁担当のN記者からはね返ってきた返事は「静岡支局の努力には敬意を表するよ」との短い一言だったという》
山際さんは比較的新しいリークの事例として、2002年に富山県氷見市で起きた強かん事件で逮捕・起訴され、服役後に“真犯人”が現れた冤罪・氷見事件の柳原浩さんのケースと比較した。氷見事件では、県警による「余罪」に関するリークで、読売新聞記事(02年4月16日)が記事を書いたことが分かった。柳原さんが起こして勝訴した国賠裁判で、記事の内容と全く同じ情報が、「捜査指揮簿」(同15日)という県警の内部記録に残されていたことが判明している。
静岡地裁の再審開始決定から1年3カ月になるが、検察の時間稼ぎの不当な東京高裁への即時抗告によって、再審開始決定はまだ正式には決まっていない。
メディアがDNA型鑑定で地裁の再審決定が出たかのように報道しているのは間違いだ。記事の書き出しで、「再審開始決定の決め手となったDNA型鑑定」(中日新聞)という報道機関が多い。静岡新聞が「地裁が重視したDNA型鑑定」というのがまだましだ。
学会ワークショップには一般参加の市民が10人いたが、学会会員は1人。資料だけ取りに来た会員が一人いた。京都の司法記者クラブと大学記者クラブに案内文を送ったが、一社も取材に来なかった。
学会が開かれた同志社大学新町キャンパスは、私が20年間教鞭をとった同志社大学社会学部があり、浅野研究室もあった学舎だ。秀子さんと支援者はそれぞれ会費4000円を払って一般参加したが、受付場所は臨光館207番教室。私の追放を決めた大学院教授会の開催された教室だった。
また、私の地位確認裁判支援を支援している現役学生、元学生、元浅野ゼミ生の母親らが6月14日午前、新町キャンパス正門前で、小黒純教授らによる解雇攻撃の経緯を説明し、私の裁判支援を訴える《「日本マス・コミュニケーション学会 2015年度総会及び春季研究発表会」に参加の皆さんへ》と題したビラを配った([A])。支援者は13日午後6時前後、学会懇親会が開かれた平安会館の入り口でもビラを配布した。支援者によると、ビラを入手した40代の小太りの男性会員が小黒教授にビラを手渡ししたのか、小黒教授が正門に現れ、ビラを配布していた3人に近付き、威嚇的に一眼レフのカメラを向け、全員の顔写真を撮影したという。肖像権の侵害だ。小黒教授は3月14日に今出川キャンパス良心館で開かれた渡辺武達教授の最終講義で司会を務めたが、そこでもカメラで、参加者全員の写真を撮っている。
ビラを受け取った京大教授は「浅野さんがこんなことになっているのを初めて知った」と言った。
学会会場では同大の院生、学部4年生がアルバイトでスタッフを務めるが、私が昨年三月まで指導していた学生たちが、私を追放した小黒教授、河崎吉紀准教授らと一緒に学会運営に当たっており、そのうちの一人は、ビラまきをしていた元ゼミ生の母親を睨み付けていたという。母親は「浅野ゼミのイベントによく来ていて、院生の彼女とは親しくしていた。彼女は13年10月30日に『浅野先生を守る会』を結成し、彼女は会長となって支援の中心にいたので、びっくりし、怒りを感じた」と私に話している。母親は、彼女が13年12月下旬に私の闘争支援から離脱し、大学側が裁判で私がいなくなっても、学生は誰も困っていないと主張する要因になっていることを全く知らなかった。
彼女は「守る会」の会長を辞めるとか、解散するとかの表明を誰にもしていない。鹿砦社の松岡利康代表が14年初め、月刊「紙の爆弾」コラムに、彼女の実名を挙げて、「すたこらさっさと逃亡した院生がいる」と表現しようとしたのを私が知って、匿名にするよう頼んだことがあった。悪いのは渡辺教授ら同僚六教員であり、学生も被害者だと当時は思っていた。しかし、学会で渡辺、小黒両氏と談笑し、旧知である私の支援者に冷たい視線を送る彼女を見ると、被害者がファシストと組んで加害者になることもあるという現実を直視しなければならないと感じた。彼女の研究テーマは、「東電福島原発事故と報道」である。彼女は一四年度から日本学術振興会の特別研究委員(2年間)となり多額の研究費を税金から支給されている。彼女の現在の指導教授は渡辺教授に最も近い竹内長武教授(児童文学者、手塚オサム研究者)である。「手塚の作品には、鉄腕アトムもあるので原発と無関係ではない」と言う人もいるが、竹内氏は「ジャーナリズム分野は分からない」と公言している。
学会で支援会と原告がビラ配布
既に述べたように、2015年6月13・14日に同志社大学新町キャンパスで開催された日本マス・コミュニケーション学会で、浅野健一教授の労働裁判支援者5人は《「日本マス・コミュニケーション学会 2015年度総会及び春季研究発表会」に参加の皆さんへ》と題した文書([A])を配布した。文書には山口正紀・元読売新聞記者の「週刊金曜日」14年3月21日号「学生を無視して浅野教授を追放」(通巻984号)と前田朗・東京工科大学教授(刑事法)の「マスコミ市民」14年5月号(通巻544号)「ジャーナリズム精神なきメディア学」を添付した。
学会では、私も不当解雇問題で、会員へのアピール文([B])を配布した。
[A]
2015年6月13・14日
「日本マス・コミュニケーション学会 2015年度総会及び春季研究発表会」に参加の皆さんへ
私たちは2014年3月末に同志社大学から追放されて現在、京都地裁で学校法人同志社(水谷誠理事長=神学部長)を被告として、地位確認請求訴訟を起こして裁判中の同志社大学大学院社会学研究科メディア学専攻博士後期課程・同志社大学社会学部メディア学科の浅野健一教授を支援する学生・元学生、市民です。私たちは「浅野先生を守る会」(院生の矢内真理子さんの呼び掛けで2013年10月30日に結成)「浅野教授の文春裁判を支援する会」(山口正紀事務局長)、「浅野教授の復職を求める『7・5要望書』署名学生・市民の会」に参加する者です。
1994年に共同通信記者から同志社大学大学院教授に転身した浅野教授は20年間教鞭をとってきました。ところが、浅野教授は2014年3月末に、学校法人同志社から、希望する院教授に制度としてほぼ100%認められている「定年延長」を拒否され、「65歳定年退職」の形で不当解雇されました。院メディア学専攻・学部メディア学科の教員たちは浅野教授の14年度の院と学部の全科目を「未定」「休講」として、大学から完全追放しました。(以下、役職は当時)
浅野教授が専攻の同僚教員によって追放されるまでの過程はまったく不合理に満ちたものでした。2013年10月25日、新町キャンパス渓水館にある小黒純教授(本大会・開催校責任者、12年に龍谷大学から移籍)の研究室で開かれた社会学研究科メディア学専攻の「臨時専攻会議」(「臨時議長・小黒教授=博士課程前期任用教授、竹内長武、佐伯順子、池田謙一各教授=博士後期課程任用教授=の計4人で構成)において、「渡辺武達教授(69歳)の5回目の定年延長あり、浅野教授(65歳)の1回目の定年延長はなし」という“結論”を出しました。13年度専攻の教務主任(学長任命)だった浅野教授はこの4人の決定経過に瑕疵があるとして認めなかったため、最終的には専攻会議での決定は時間切れで行われなかったのですが、冨田安信・社会学研究科長(社会学部長兼任、産業関係学専攻教授)は10月30日と11月13日の研究科委員会(院教授会)で、4人の“決定”を専攻決定と勝手に判断し、浅野教授の定年延長を否決しました。
同志社大学では慣習上、よほどのことがない限り大学院教授の70歳までの定年延長は認められてきました。浅野教授はこれまで博士論文の主査を4回(最初の博士号取得者が河崎吉紀准教授)も務め、ジャーナリズム教育の中心で、一般市民や高校生を対象にした出前授業も活発に行われ、メディアにも度々登場するなど社会的活動も活発にしています。
小黒教授ら4人は、浅野教授の定年延長の可否を審議した2013年10月30日の研究科委員会で、「浅野教授定年延長の件 検討事項」と題した審議資料(作成者名、日時の記入なし)を30人の院教員に配布し、11月13日に研究科委員会ではその「怪文書」をもとにした「定年延長なし」の不当決議が無記名投票でなされました。浅野教授に関する虚偽事実を並べ立てて誹謗中傷したこの「審議資料」はまさに文責不明の怪文書でした。
「臨時専攻会議」議長を名乗る小黒教授は2012年に70歳で退職した山口功二教授(メディア史)の後任として公募で入社した渡辺教授の忠実なサポーターであり、本年3月14日に今出川キャンパス良心館で開かれた渡辺教授の最終講義(冨田研究科長と京都新聞社長が挨拶)においてその司会役まで務めています。ジャーナリズム史、メディア史の教授の後任に研究分野が異なる小黒教授が選ばれたのは、公募の手続き上、問題だという指摘があります。
4人は怪文書の中で、浅野教授が「大学院教授としての品位にかける表現」を雑誌記事や学生向けシラバスなどで使っていると非難しました。
「"ペンとカメラを持った米国工作員"」「労務屋」「企業メディア"用心棒"学者」「メディア企業御用学者」「デマ」
また、学生向けのシラバス(授業計画)での「不適切な内容、表現」として次のような用語をあげました。
「マスコミ用心棒」「御用学者」「御用組合」
渡辺教授グループ(「週刊文春」確定判決=文春に550万円賠償命令=では2004年設立)の教員と安倍自公政権を擁護する村田学長のような学者は、“御用学者”としか呼びようがないのではないでしょうか。
この怪文書には他にも「専攻科の各教員は常時強いストレスにさらされている・・・(中略)突発性難聴や帯状疱疹などの発症」という非科学的記述もあります。精神医学者の野田正彰・元関西学院大学教授は京都地裁へ提出した陳述書(4月9日付)で「感染症の帯状疱疹を、浅野教授のストレスによるものと言うのは意図的なものでしょうか。これでは浅野教授をウイルスの元といっているかのようであり、子どもたちがいじめに使う『バイキン』に類似する思考であると言えます。大学という場で、教授たちが他者の非難に、でたらめな医学知識を乱用しているとしか言えません」と書いています。
これによって2014年2月21日の法人理事会でも、浅野教授の定年延長は社会学研究科から提案されなかったため、審議もないまま認められず、4月から教鞭をとることができなくなりました。新町キャンパス南の渓水館にあった研究室も奪われ、3月末大学を完全追放されました。論文の指導を受けていた博士後期課程の院生2人(一人は14年度から日本学術振興会特別研究員、もう一人はインドネシア政府奨学金留学生)と前期課程の学生6人は指導教授を失いました。この中には記者志望で「核と日米ジャーナリズム」で修論を書いている学生もいました。浅野ゼミ20期生だった13年度3年ゼミ(13人、研究のテーマは「憲法改定とメディア」)は強制解散されました。今最も重要な政治課題である憲法改定問題と報道をテーマに東京合宿を行うなどの活動をしていた元ゼミ生はそれまでとはまったく異なる研究分野のゼミに振り分けられました。浅野教授には全く相談がなかったとのことです。
同志社大学社会学部は2014年6月から8月まで、浅野教授の後任補充を含め3人のメディア学科専任教員(1人は任期=5年=付き)を公募し、創価大学から伊藤高史教授が浅野教授の後任ポストに座りました。浅野教授は自身の教授職の地位確認を求めて京都地裁で裁判中です。浅野教授の後任人事は「裁判を受ける権利」を無視した暴挙です。もし、浅野教授が裁判で勝てば、大学側はどうするのでしょうか。
浅野教授が今日置かれている立場自体が言語道断な暴虐の結果であることは言をまたないのですが、大学当局が正当な理由もなく2014年度の浅野教授の大学院と社会学部の担当予定科目(専攻・学科会議で13年10月17日までに決定)を「未定」「休講」にしたまま放置していることも世界の大学に例のない無責任なことだと言えると考え、2014年7月5日に開催した小出裕章さんのシンポジウムを契機として、浅野教授の秋期の講義を開講することなどを求めた要望書の署名(同志社大学生および一般市民あわせて171名)を集めて、14年7月および8月に同志社大学と学校法人同志社に提出しました。しかし、大学側はなんら誠意ある行動を見せず、さらには15年度の浅野教授の大学院と学部の担当科目もすべて「休講」のままとなっております。本学において唯一といってもよい浅野教授の本格的なジャーナリズム論の授業が、メディア学科において2年間も開かれてないというのは、果たしてどうなのでしょうか。まさにいまのメディア学科は骨抜き状態と言っても過言ではありません。
浅野教授は2014年2月3日、京都地裁民事6部に「従業員地位確認等請求訴訟」(平成26年(ワ)第310号、(堀内照美裁判長、堀内裁判官は第6民事部・部総括判事)を起こして、これまで7回の口頭弁論が開かれました。
この裁判で、被告・法人同志社側は、20年間院教授を務め4人に主査として博士号を出した浅野教授について、「院教員として業績がない」「院教授のレベルにない」「学生に裁判支援を強制している」などと主張をしています。また冨田社会学研究科長が5月26日付で書いた京都地裁宛の陳述書には「帰国せざるをえなかった、大学院で博士論文を書いていたインドネシア政府の国費留学生を除いて、(浅野がいなくなっても)被害を受けた学生はいない」「メディア学科の学生は(原告の解雇に関し)全く抗議していない」とあります。まったく真実から遠くかけ離れたことです。メディア学科の学生の中に、浅野ゼミがなくなって困っている学生は少なからずいます。法学政治学科などで記者や報道職を目指す学生は浅野教授が20年間担当してきた「新聞学原論Ⅰ・Ⅱ」を履修できないで落胆しています。法学部事務室の職員は「メディア学科の基幹科目が3年連続休講というのはあり得ないことだ」と学生に言っています。院に入学した学生たちも4月初めに社会学研究科事務室で、「なぜ浅野先生の授業がないのか」と聞いています。また、東北の大学から、浅野教授のゼミを目指して同志社大学社会部メディア学科に3年次編入してきた女子学生もいます。浅野ゼミが出版した日本軍慰安婦のブックレットを読んで、韓国など外国でゼミ調査旅行に参加したいと思って14年4月に編入した彼女は、3月末に履修要項を見て浅野教授のゼミがないことを知り愕然としたそうです。消去法で他のゼミを選ぶしかなくなり、仕方なくある教員のゼミに入ったそうです。
2014年7月および8月に同志社大学と学校法人同志社に署名を提出しましたが、署名を集めた中心人物は政策学部の学生(本年3月に卒業)です。彼は浅野教授の授業に登録さえしていませんでした。ましてや浅野教授は社会学部のメディア学科の教授ですから、どうやってその「学生に裁判支援を強制」することができるのでしょうか。そしてなにより、そのように浅野教授とはまったく接点のなかった学生がこのように行動しているということから、冨田研究科長が言うように「被害を受けた学生はいない」というのが真っ赤なウソだということがわかるでしょう。さらに2014年2~3月にかけて、冨田研究科長から浅野教授のゼミ生たちの自宅(実家)に「指導教授の変更について」という趣旨の文書が届き、ゼミ生たちの両親は非常に驚いたそうです。学生自身に関わる事案を通知するのであれば大学からの連絡は、たいてい学生に直接伝わるようにするのが当たり前です。通知文書を学部の掲示板に張り出したり学内メールで学生に知らせたりといった手段などで、です。それを学生ではなく学生の親にわざわざ知らせるというのはよほどの大きな事でしょう。冨田研究科長はよほど原告を追い出したくて、学生のみならず学生の親にまで「警告」したのです。
浅野教授は小黒教授ら「怪文書」の4人と渡辺教授の計5人を名誉棄損損害賠償で訴える別の裁判を東京地裁で起こしました。浅野教授の現在の二つの裁判のことは浅野支援会のHPにあります。
http://www.support-asano.net/index.html
浅野教授追放を主導したのは、「浅野に敵意に近い感情を持つ」「大学に不信感も抱いた」(文春確定判決の認定)同僚の渡辺教授が率いる渡辺教授グループ(週刊文春確定判決では2004年結成)であることは間違いないでしょう。まさに暗黒裁判、クーデターでした。渡辺教授グループによる嫌がらせ、暴挙を同志社大学(村田晃嗣学長)と法人同志社が追認し、裁判では怪文書をさらに拡大して、浅野教授の「不良教授浅野像」をでっち上げて攻撃しているのです。
渡辺教授は2005年11月に「週刊文春」で「浅野教授が院生にセクハラ行為を行っている」とウソの「告発」をしました。渡辺教授は自分が指導する院生2人(男女)を浅野教授による“セクハラ”“アカハラ”の被害者にでっち上げて、佐伯、竹内両教授らと共謀して悪徳週刊誌、毎日新聞、ネットを使って、浅野教授の失脚を狙ったのです。
もちろん、すべてウソ偽りですから、大阪高裁は文春に賠償金550万円の支払い命令を言い渡し、浅野教授は完勝しました。また、浅野教授が文春記事の“キーパーソン”の渡辺教授を訴えた裁判でも、東京高裁は90万円の賠償命令を出し、それぞれ最高裁で確定しました。渡辺教授は二つの裁判で完敗したのに、全く懲りず2013年に同僚の教員5人と冨田研究科長らと組んで、定年延長制度の手続き規定の曖昧さを悪用して、浅野教授の定年延長を妨害したのです。
同志社大学はリベラル・アーツ教育、良心教育を大切にする大学です。建学者の新島襄は「人民のための大学を」「人一人は大切なり」と思って同志社大学を創立したはずです。そのような大学がなぜ、浅野教授に対する不当な追放を認め、かつそれに反対する学生・一般市民の声に応じないのでしょうか。極めて反民主的なことであり、それは同志社大学の建学理念に真っ向から反します。教育現場の破壊です。
皆様にはぜひ、この事件を深く知っていただきたいと願っております。さらには浅野教授の裁判闘争をぜひ支援していただきたいと願っております。ぜひご協力してください。このビラを読んで、「信じられない」と思うのであれば浅野支援会ホームページ(http://www.support-asano.net/index.html)を閲覧するか、直接浅野教授に問い合わせください。
浅野教授の文春裁判を支援する会・事務局
浅野教授の復職を求める「7・5要望書」署名学生・市民の会
連絡先;「浅野教授の文春裁判を支援する会」
メールアドレス
[B]
日本マス・コミュニケーション学会参加のみなさんへ 2015年6月13~14日
浅野健一・同志社大学大学院メディア学専攻博士課程教授(京都地裁民で地位係争中)
人権と報道・連絡会
www.jca.apc.org/~jimporen/
E-mail:asanokenichi@nifty.com
浅野ゼミHP http://www1.doshisha.ac.jp/~yowada/kasano/index.html
私の本学会「所属」表記と地位確認訴訟について
本学会に新聞学会時代の1994年から会員をしている同志社大学大学院メディア学専攻博士後期課程教授の浅野健一です。前回、本学今出川キャンパスで開催された学会では、懇親会の司会を務めました。
今回の大会が開かれる新町キャンパスは私が長く教壇に立った教室、研究室のあった思い出深い学舎です。同時に渡辺武達教授グループ6人による“浅野追放クーデター”の現場でもあります。この大会の開催校を代表しているのが小黒純教授と河崎吉紀准教授(浅野ゼミ2期生、博論主査は私)です。
私の提案で、14日午後4時から5時40分まで、新町キャンパス・臨光館211教室(R211)で、ワークショップ「警察リークと犯人断定報道―袴田事件から氷見事件まで」が開かれます。問題提起者は山際永三さん(日本映画監督協会・理事)で、司会は私です。袴田巌さんの姉の袴田秀子さんが一般参加します。
- 学会が所属表記を変更した経緯―圧力を掛けたのは誰か究明を
15年5月14日発行の「日本マス・コミュニケーション学会会報」第281号の60頁に掲載された「ワークショップ7」の司会者のところの「所属」が「同志社大学(学校法人同志社と地位確認係争中)」となっております。極めて稀な表記ですので、この機会に2013年10月29日から今日まで続いている小黒純教授ら同僚4人とその背後にいた学内の反浅野勢力の謀議によるクーデター、暗黒裁判について皆様にお伝えし、雇用裁判へのみなさんの支援を呼び掛けます。
また、マス・コミュニケーション学(特に報道倫理、メディアリテラシー)を専門とする研究者たちが学内でハラスメント疑惑を捏造し、悪徳週刊誌を使って私を社会的に抹殺しようとした「メディア学者の犯罪(不法行為)」についても、メディア学の研究対象として取り上げていただくようお願いします。この点については、山口正紀・元読売新聞記者の「週刊金曜日」14年3月21日号「学生を無視して浅野教授を追放」(通巻984号)と前田朗・東京工科大学教授(刑事法)の「マスコミ市民」14年5月号(通巻544号)「ジャーナリズム精神なきメディア学」を参照ください。
私は学校法人同志社から不当解雇され京都地裁で地位確認裁判を闘っています。被告は学校法人同志社(水谷誠理事長、神学部長)で、「従業員地位確認等請求訴訟」=平成26年(ワ)第310号=です。
労働者の権利を守るために裁判中なのに、同大から解雇・完全追放され、「籍」を消されました。佐藤優・元外務省主任分析官が7年間起訴休職だったように、公務員なら、刑事事件で被告人なっても、なかなか解雇もされないのに、大学教授の地位はこんなに簡単に抹消できるのかと驚いています。
その点、本学会の谷藤悦史会長をはじめとする執行部のみなさんが、最終的に私の所属について、「同志社大学(学校法人同志社と地位確認係争中)」と客観的に表記すると決定したことは、学校法人同志社や私の同僚の法感覚と比べると秀逸であると考えています。本来は昨年6月、専修大学で開催された大会と同様に、「同志社大学」でよかったと思いますが、私が同志社大学から完全に消えたと主張する会員(1789年以前の法意識)がかなりいたために、会長、学会企画委員会委員長、同副委員長(2名)は苦労されたと思います。
この間の経緯を報告します。
私は14年度春期大会でもワークショップの提案をして採用されましたが、マスコミ学会企画委員会委員長ら3人から14年5月15日午前11時ごろ、《個人・共同研究発表、ワークショップご登壇者 各位》と題したメールが届きました。
[ 5/31・6/1にご登壇いただく標記研究発表会に関し、年度が切り替わった時期でもございますので、ご発表時点で、会報に記載されているご所属より変更がおありの方は、お知らせいただければ幸いです。
変更ない方は、とくにご連絡いただくには及びません。》(抜粋)
私は午後5時過ぎ、《ワークショップで司会をする同志社大学の浅野健一です。この種の問い合わせメールは発表会のあるたびに毎回送っているのでしょうか。過去にあまり記憶がないのでお聞きします》という返信を送りました。
午後6時ごろ、委員長からすぐに返信がありました。
《登壇者の方々には年度がわりの時期にエントリーいただいているので、研究発表会当日のプログラム作成に先立ち、念のために、今年度の企画委員会として、確認のメールをお出しした次第です。過年度でも、こうした確認をさせていただいたこともございます》
このメールを受け取った後に、企画委員会役員の方と電話でのやりとりがあり、「こういう問い合わせは春、秋の学会大会で毎年行っているのか」という質問に、役員の方は「毎年はやっていない」と回答しました。「直近ではいつこの種の問い合わせをしたのか」という質問には、明確な回答はありませんでした。この種の問い合わせは「過年度」に実施したことはあるが、慣例ではなく、毎回は行っていないとの説明だったと私は受け止めました。私自身、学会で毎年のようにワークショップなどを実施し、私が指導していた院生が何度も研究発表もして、学会の紀要にも論文を掲載していただきましたが、こうした所属機関の変更の有無に関する問い合わせを受けた記憶はありません。
6月1日、専修大学の大会会場に行くと、私の名札の肩書は「同志社大学」で学会の領収証の宛名も同じでした。
今年もワークショップの提案がとおりましたが、15年4月中旬、企画委員長から、「所属先」の件で電話を何度かもらいました。私は昨年度までの表記で問題ないのではないかと表明して、もし、学会として変更を希望するなら文書で要請してほしいと要望しました。
その後、4月13日に学会事務局(谷藤会長、東海大学文学部内)からの配達証明郵便を受け取りました。封筒には、谷藤会長からの「所属機関の表記について(ご連絡)」との標題があり、《会員がその所属機関における雇用問題等をめぐって訴訟を提起して係争関係にある場合には、当該訴訟が継続している間、原告、被告のいずれにも与せず、司法上の事実関係を忠実に反映することが、事実に謙虚な学術研究団体のとるべき公正な姿勢であると認識しています》との見解が2頁にわたり書いてありました。
私は以下のように返事をしました。
[ この見解は、日本国における三権分立の民主主義制度、国際法・日本国憲法が保障する労働基本権、裁判を受ける権利などを深く理解されてのご認識だと思います。
会長が私の所属の表記を《「同志社大学・地位確認係争中」》と変更したいとのご提案ですが、基本的には同意しますが、去年と同じでいいのではという思いも強くあります。また、会長が変更する根拠としてあげた文章の中に、一部ですが、事実関係の誤りがあります。記述に不正確な部分もありますので、表記変更の「措置」の執行はしばらくお待ちください。
まず、以下に質問をさせていただきます。
p1に、《2014年に同志社大学(学校法人同志社)を被告とする従業員確認等請求訴訟を提起し、同志社大学と係争関係にあり・・・・》とありますが、私が定年延長拒否をめぐって、学校法人同志社(水谷誠理事長)を相手に裁判を起こしたのは2013年12月27日の地位確認の仮処分申立が最初で、仮処分については2014年5月14日に棄却の決定が出ています。従業員確認等請求訴訟を起こしたのは2014年2月4日で、第7回の口頭弁論が本年4月9日に開かれ、年内に結審の予定です。
被告はあくまで学校法人同志社であり、同志社大学とは係争していません。新島襄が創立した同志社の場合、雇用関係はすべて学校法人同志社が行っており、特に定年延長に関しては「法人が必要と認める院教授」にだけ65歳から70歳まで定年延長が1年ごとに実施されるという就業規則があり、私と法人との間で、私の定年延長の可否に関して争っています。従って、「同志社大学 京都地裁で学校法人同志社と地位係争中」とするのが正確です。
次に、学会が2014年度において私の肩書を同志社大学とした根拠として、p2において、2014年度春期で私が司会をしたワークショップ(2014年6月1日)に関しての学会と私のやりとりを挙げていますが、これには問題があります。
p2に、昨年5月15日に受け取った学会からのメールに、《所属変更にご回答がなかった》とありますが、これは明らかに事実に反します。
なお、私が申し立てた地位保全の仮処分決定(私には不利な決定、緊急性はなく本訴で審議するという趣旨の判旨)が出た翌日に、この問いあわせメールが発信されています。メールのやりとりを末尾に(注)として貼り付けます。
仮処分決定の翌日にこういうメールが学会から来たのは、何かの偶然でしょうか。私は当時、学会の理事などの役員の中に、私を追放した同志社大学大学院社会学研究科メディア学専攻・同志社大学社会学部メディア学科の専任教員が複数いることと関係していると感じていました。1年前、学会は、私の名札の肩書を「同志社大学」とし、学会参加費の領収書の宛先も「同志社大学 浅野健一様」としていました。
2014年度春期でワークショップ(2014年6月1日)応募時の2014年2月13日には、既に、私は京都地裁へ仮処分の申立と、本裁判提訴を行っており、産経新聞大阪本社社会面(13年12月28日)、京都新聞(同)でも仮処分事案が報道されています。また、13年12月以降、春期大会が開かれる13年6月までの間に、「週刊金曜日」「創」「紙の爆弾」「マスコミ市民」「人民新聞」「人権と報道・連絡会ニュース」「救援」「浅野教授の文春裁判を支援する会HP」(ネット)などの媒体で、私が学校法人同志社を被告として労働裁判を起こし、同志社大学で教鞭をとれなくなったことが周知の事実になっていました。とりわけ、既に申し上げていますように、私の所属先の大学の同僚と、同僚が指導した元学生が学会の役員を務めています。6月の学会を担当している河崎吉紀准教授は私が同志社大学に赴任して2年目に3年ゼミに入り、9年間指導をした元ゼミ生で、博士号(新聞学)の審査で主査も務めさせてもらっています。14年5、6月の時点では、私が学校法人同志社と裁判で係争中であることは同僚たちから学会役員に伝わっていたと考えます。
先日のメールでもお伝えしましたが、私は、どういう人たち、グループが、私の「所属機関の表記」にこだわっていて、学会会長らにプッシュしているのかに関心があります。もし、会員のどなたかが、私の所属機関の表記について、学会会長らに、公式・非公式に言ってきている場合、当事者の私にぜひ教えてください。会員のほとんどは「公人」で、私にはその姓名を知る権利があると思います。 なお、私が勤務する同志社大学(大学院メディア学専攻専任教員を含む)の関係者からは、私に何の問い合わせもありません。
最後に、これは単純な質問ですが、p2に《日本社会学会においても、過去に、会員の所属機関について同様の表記がなされておりました》とありますが、社会学会のどういう事案か教えていただけませんでしょうか。私が社会学会に問い合わせることもできますが、差支えのない範囲で、どこに聞いたらわかるかなどご教示いただければ幸いです。
本書面到着後1週間を目途にご返事をいただければと思います。今後のやりとりは、メールまたは普通郵便で結構です。 ]
私の学会での「所属」は、「同志社大学(学校法人同志社と地位確認係争中)」とするという最終通知が谷藤会長から5月3日郵便の書面で届きました。会長は、14年5月の問い合わせと仮処分決定との関係について、単なる偶然と返答しました。この書面には不満な点もありましたが、この表記変更は、私が置かれている状況について、世界中のメディア学者に知ってもらうためにもいいと考えて、敢えて異議を申し立てませんでした。
- 私を追放した小黒教授ら6人の暴挙
私は1994年から大学院教授で、1998年に設置された後期課程の教授に任用されており、メディア学専攻で最も古い教員です。学校法人同志社の定年は65歳ですが、同志社大学の大学院教授だけは70歳まで1年ごとに定年延長される定年される特異な制度があります。これは再雇用ではなく、雇用の継続です。これまで本学では定年延長を希望した院教授の1回目の定年延長が拒否されたのは私のケースが初めてです。
私の定年延長を拒んだのは13年10月25日、密室で開かれたメディア学専攻の「臨時専攻会議」の構成員である小黒純(ニュース論)、竹内長武(漫画論、児童文学)、佐伯順子(日本文学)、池田謙一(社会心理学)各教授です。4人に私の定年延長を認めないよう指示したのが渡辺武達教授(メディア倫理)で、当時、院教授には任用されていなかった河崎吉紀准教授(浅野ゼミ2期生、博論主査は私)=13年度学科の窓口(責任者)=も協力しています。
小黒教授は「渡辺武達教授(当時69歳)の5回目の定年延長を研究科委員会に提案し、浅野(同65歳)の1回目の定年延長を提案しない」という趣旨の「結論」を決めました。当時、私は学長の任命する専攻教務主任でしたので、この決定過程には渡辺教授の担当科目を審議していないなどの瑕疵があるとして専攻会議での審理を求めましたが、4人は10月30日の専攻会議で審議を拒否したため、私は教務主任として冨田安信研究科長(社会学部長兼任)に、渡辺教授と私の二人の定年延長を提案すると通知しました。ところが、冨田研究科長は4人の不当な「決定」を「専攻会議決定」として捏造し、私の定年延長だけ、研究科委員会で可決条件を新任人件と同じ「過半数の出席で3分の2の賛成」と独断で決め、空前絶後の定年延長人件での無記名投票を強行したのです。
メディア学専攻は13年10月16日の専攻会議で、渡辺教授と私の科目を含め14年度の開講科目・担当者一覧を決定して冨田科長に提出していました。学部の科目も同様です。私は院と学部で、学部1年入門ゼミから博士後期課程の「特殊研究」まで10コマを担当することになっていました。ロシアからの日本政府奨学生は私の下で「外国人犯罪と日本の新聞」をテーマに修論を書く予定でした。「福島原発報道」を研究テーマに14年度から2年間、日本学術振興会特別研究員に内定していた後期2年の学生もいました。渡辺教授が科目担当の複合領域科目「マスメディアの現場」(1995年から続く)を担当する予定でした。学内のプロジェクト科目「絵手紙と夜間中学」(科目担当・次田哲治さん)の科目代表でした。2014年版の「同志社大学案内」には浅野ゼミと私の紹介が載っていました。私は13年度に2回行われた院入試の責任者でした。学内4高校を含め高校生対象の大学入学準備講座で模擬講義もしました。私が14年4月以降も教授としていると思って、メディア学専攻・学科に入学してきた学生もかなりいます。仙台から3年次編入で入試を突破した学生は、14年4月1日、私のゼミがないことを初めて知ってパニックに陥りました。
しかし、メディア学科の6人は冨田研究科長と組んで、私が指導していた学生に対し、理事会決定の3カ月も前から、私がいなくなるので、14年度の指導教授の変更について話し合いたいと、自宅へ手紙を二度も郵送して、私と学生の分断をはかりました。13年度3年ゼミの13人に対しても、4年次には他の教員のゼミに移ると通告する手紙を全員に送っています。本学では、学生への教務連絡で自宅へ手紙を郵送することはありません。
本学科ではゼミは2年連続、卒論もゼミ教員が指導という学科規程があり、12年3月東京経済大学へ移った柴内康文准教授と13年4月法政大学へ移籍した青木貞茂教授は4年次ゼミと卒論指導のため新幹線の交通費を支給され、1年間嘱託講師を務めました。私のケースでは、6人は私が就業規則に従い、「定年退職した」と主張しながら、嘱託講師での任用もせず、20年間、教授を務めた私を名誉教授にするかどうかの学科審議も意図的に行っていません。
このため、「憲法改定とジャーナリズム」を共同研究(京都民報などに記事)していた浅野ゼミ20期生は14年3月末に強制解散され、13人のゼミ生はばらばらにされて他の教員(14年に民間から教授として赴任したT教授以外は「浅野追放グループ」)のゼミに暴力的に振り分けられたのです。私には何の相談も、引継ぎもありません。学科の専任教員が学則、学科内のルールを一方的に破っての暴挙です。浅野ゼミが1994年以降、市民と共に企画して、多数の市民も参加した冤罪、非戦平和、沖縄米軍基地、原発(「DAYS JAPAN」12年4月特別号「検証・福島原発報道」に成果))、日本軍性奴隷(現代人文社『ナヌムの家を訪ねて』を出版)、沖縄米軍基地、日米密約、パレスチナなどをテーマにしたイベントは社会学部からほぼ消えました。
私を追放した後、6人と冨田科長は何の対策もとっていません。そのため、私の院と学部の科目は1年3カ月、すべて「休講」になっています。私の後任として採用したと学内で公表している伊藤高史教授(元創価大学、日本大学新聞研究所紀要=12年3月2日発行「ジャーナリズム&メディア」=に私を不当に批判する論文を寄稿)は私が担当の学部科目「新聞学原論Ⅰ」(春期)「新聞学原論Ⅱ」(秋期)を引き継ぐことなく、両科目は2年連続、休講になっています。院科目の「ジャーナリズム論」「新聞学」「メディア責任制度論」「国際報道論」は14年度が「科目担当者未定」、15年度は「休講」になっています。海外の大学では通常の授業でも、1回の休講は許されません。法学部事務室の担当者は「浅野先生の授業は法学部の選択専門科目になっているが、今年も休講になっているのはなぜか」という学生の問いに、「メディア学科の決めることではあるが、2年も基幹科目を休講にしているのはおかしい」と学生に言ったそうです。
6人はゼミの時間に、私との連絡を絶つように威圧し、14年以降も私を支援していた元ゼミ生を脅迫し、私とかかわらないように強制しました。法人同志社は裁判で、「連絡がとれない一時帰国中の留学生1人を除き、院と学部のメディア学専攻・学科の学生の誰も(浅野追放に関し)抗議をしていない」と豪語しています。この留学生はインドネシア政府奨学生の後期課程3年生だった院生(インドネシア国立ガジャマダ大学文学部日本学科助教)のことで、専攻の同僚4人は論文提出資格の予備審査で、「十分資格はあるが浅野先生の退職後に再審査する」(竹内長武教授)として不可の決定をしたあと、14年6月に「14年3月末に遡って満期退学とする」という決定を、指導教授の私に相談もなく強行して本人に通知しています。
この院生と学振特別研究員になった院生の二人の2013年度の「指導所見」(博士後期課程の唯一の成績評価)を私に書かせず、別の教授が記入しています。冨田科長は、学振特別研究員に内定していた院生の指導教授の変更手続きで、14年4月7日、「受入教員変更届」について、私が署名押印を拒否しているという虚偽文書を作成して院生に渡し、院生がそれを知った上で、学振へ提出しています。院生の新しい指導教授は「鉄腕アトム」も研究対象にしている竹内長武教授のようです。14年度の専攻教務主任は池田謙一教授ですが、違法不当な文書であることを知っているはずで、連帯責任が発生しています。
法人同志社の代理人と村田晃嗣学長と冨田研究科長は「14年3月末までに研究室を明け渡すように」と書留速達郵便でパリ大学へ公務出張中の14年3月27日に通告してきました。このため、新町キャンパスにあった浅野研究室も14年5月初めに強奪されました。
法人代理人は元ゼミ生との通信を制限する憲法違反の威嚇を行ってきました。
- 超法規的措置だった北村日出夫教授の定年延長
私が同志社へ入社した1994年以降、渡辺教授と私の定年延長審議の前に、65歳定年を迎えた院教授は、北村日出夫、竹内成明、山口功二各教授の3人しかいません。3人の審議経過と私のケースを比較すれば、いかに私の定年延長拒否が異常か分かるでしょう。
1997年度の定年延長対象者だった北村教授(2005年に肺がんで死去)は元朝日放送社員で、「記号論」の権威で文学部長も長く務め、本学会(当時は日本新聞学会)で役位を歴任した重鎮でした。北村教授の定年延長は社会学研究科(当時は文学研究科)における「手続き」のいい加減かを示しています。北村氏は長く勤務した「新聞学専攻」(現在のメディア学専攻)でからの提案ではなく、「社会学専攻」からの提案で5回定年延長が認められました。
1990年に同志社大学に赴任した渡辺教授は北村教授を徹底的に敵視し、北村教授が65歳定年を迎える約2年前から、学部の専攻会議の場で公然と「あなたの定年延長は認めない」と通告し、「あなたは97年3月末にいなくなるから」という理由で、採用人事案件の会議などからも外していました。渡辺教授は1996年10月の院の教員の会議(北村教授を外し)で、多数決で「北村教授の定年延長を認めない」と決定しました。会議のメンバーは渡辺、山口功二(2012年3月に70歳定年で退職、現在名誉教授、後任は小黒教授)、竹内成明(元京都大学人文研究所助手、2004年70歳定年で退職、現在名誉教授、後任は竹内長武教授)各教授、佐藤卓己助教授(2001年3月末年に退職し、国際日本文化研究センター助教授を経て、2004年から京都大学大学院教育学研究科准教授)と私の5人でした。会議では、渡辺、山口両教授が「北村教授の定年延長を認めない」と提案。竹内成明教授は両教授の提案に反対し「定年延長を認めるべきだ」と表明し、佐藤助教授は棄権しました。私は渡辺、山口両教授の提案に反対せず、消極的に賛成しました。京都大学出身の北村、竹内両教授は当時、教育研究にあまり力を入れておらず、それに比べて、渡辺教授は新聞学専攻の将来を熱心に語っていました。後になって分かったことですが、この時は、北村教授を追放するために、私を利用したのです。渡辺教授は当時、北村教授の追放に協力しなかった佐藤助教授に対し冷たい態度を取り続け、佐藤助教授は2001年3月に退職しました。佐藤助教授がいなくなってから、渡辺氏の私への敵対行動が始まったのです。
その後、北村氏は密かに社会学専攻の森川眞規雄教授(私と同年齢で、14年に定年延長)らと協議を重ね、社会学専攻に博士後期課程設置の提案を文部省に行い、その準備スタッフの柱として文部省の「D○合」資格を持つ北村教授を使ったのです。1997年初めごろの文学研究科委員会で、北村教授を同じ文学研究科の社会学専攻の大学院教員へ移籍することを前提に、北村教授を柱とする社会学専攻博士後期課程の設置(1998年 4月)にかかわる文部省への申請書が公表されました。そのとき、私を含め、新聞学専攻の教員はこの“超法規的移籍”を事前に知りませんでした。北村教授の定年延長は1996年10月の文学研究科委員会で提案され、議論もなしに承認されました。北村教授の所属していた新聞学専攻からの提案はなかったのに、社会学専攻から定年延長が提案されたのです。北村教授の件については、北村教授の指導を受け博士号を取得した社会学専攻の藤本昌代准教授(情報社会学)と北村教授と親しかった竹内成明教授がよく知っています。
その後、1998年秋に竹内成明教授、2002年に山口教授の定年延長が専攻と研究科委員会で審議されましたが、専攻では全く審査もなく、研究科でも定年延長者一覧表(担当科目名付き)が配布されて、審議なしに議決承認されました。
竹内成明教授は北村教授に近かったため、渡辺教授は採用人事案件の会議から排除するなど冷淡な態度を取り続けており、定年延長の際に嫌がらせをする可能性があると私は思っていましたが、審査なしですんなり全員一致で決まりました。北村、竹内、山口各教授は70歳退職後、それぞれ名誉教授になっています。
- 二つの裁判で正義の実現を
私の地位確認裁判の第8回口頭弁論は、6月18日(木)午前10時20分、京都地裁208号法廷で開かれます。原告の私の代理人(武村二三夫弁護団長)が証人申請している庄司俊作・同志社大学人文科学研究所教授らが5月27日京都地裁へ陳述書を提出しました。山口正紀さん、浅野ゼミ14期生・山田遼平さん、14年度政策学部4年生Yさん、西田毅法学部名誉教授、野田正彰元関西学院大学教授、霍見芳浩CUNY名誉教授、矢谷暢一郎NY州立大学教授らも陳述書を出してくれました。秋には、私を追放した同僚6人と共謀した冨田研究科長(15年3月末退任、現在大学院産業関係学専攻教授=労働経済学)と私が証言する予定です。ぜひ傍聴してください。大学の在り方、高齢者の労働、表現の自由を考えるための裁判はいよいよヤマ場です。
私はこの労働裁判とは別に、3月13日、私の雇用の場を奪い、浅野ゼミ20期を解体し、同志社から追放したメディア学専攻の同僚5人を相手取り、名誉棄損損害賠償訴訟を東京地裁へ起こしました。被告5人の代理人は何と地位確認裁判と同じ大阪の俵法律事務所の弁護士たちです。被告側は京都地裁への移送を申し立て、現在審理中です。2003年9月から続く“渡辺グループ”との最後の闘いで、代理人は弘中惇一郎、山縣敦彦両弁護士です。
私の二つの裁判については、浅野裁判支援会HPを読んでください。
http://www.support-asano.net/index.html
(了)