「ならぬものはならぬ」浅野教授が意見陳述 現役院生、他大学教授らが本訴第1回口頭弁論を傍聴
浅野教授は、昨年12月27日、学校法人同志社(水谷誠理事長=神学部長)を相手取り、「従業員地位保全等仮処分命令申立」(平成25年(ヨ)第443号、京都地方裁判所第6民事部いA係)を起こし、並行して今年2月3日に本裁判の「従業員地位確認等請求訴訟」(平成26年(ワ)第310号、第6民事部合議ロC係)を提起した。
本裁判の「従業員地位確認等請求訴訟」は、4月16日午前10時45分から第1回口頭弁論が行われた。担当裁判官は、堀内照美判事(第6民事部部総括判事)、髙松みどり判事、渡邊毅裕判事補。原告側からは、原告の浅野教授、原告代理人の武村二三夫弁護士、平方かおる弁護士、小原健司弁護士、橋本大地弁護士が出廷し、被告側からは、被告代理人の小国隆輔弁護士、多田真央弁護士が出廷した。
この日の口頭弁論では、「浅野教授を守る会」(矢内真理子会長)のメンバーの院生・学部生をはじめ、同志社大学人文科学研究所の庄司俊作教授、毎日放送の元ディレクターで現在は関西大学社会学部教授の里見繁さん、演出家の高間響さん(『朝日新聞』4月5日付「ひと」欄に掲載)、「新聞うずみ火」(大阪)の平井紀子記者、救援活動家ら幅広い層が傍聴した。浅野教授の雇用問に対する関心の高さを表していると思われる。
次回期日は6月18日午前10時から、同じ京都地裁208号法廷で開かれる。原告は答弁書に対する認否反論を準備することとなる。
なお、浅野教授が昨年12月27日、学校法人同志社(水谷誠理事長=神学部長)を相手取って起こした「従業員地位保全等仮処分命令申立」については、4月11日(金)午後1時から第3回の審尋(堀内照美裁判官)が行なわれ、結審となった。5月から6月にも結論が出ると思われる。
なお、支援会が見た限りでは、被告側関係者としては、冨田安信・同志社大学社会学研究科長(社会学部長兼任)と松隈佳之・同志社大学社会学部事務長だけが傍聴し、法人の総務担当関係者の姿はなかった。仮処分の審尋(4月11日結審)が3回開かれたが、冨田研究科長と事務職員が参加しただけだった。
第1回口頭弁論では、まず原告側が訴状の通り陳述し、被告側が答弁書の通り陳述した。その後、裁判所から原告に対し証拠説明書の提出を要求した。
この日最も重要であったのは、原告浅野教授の意見陳述であった。民事裁判の冒頭で原告の意見陳述が認められるのは異例のことだ。浅野教授は約5分間、「浅野追放」の不当性を訴え、学内の非正常な決定プロセスを裁判所が正してくれるよう要請した。浅野教授の代理人は陳述前に陳述書の書面を配布したが、堀内裁判長は配布された陳述書を見るのではなく、浅野教授の方を向きながら真剣な表情で話に耳を傾けていた。以下、浅野教授の意見陳述全文である。
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意 見 陳 述
京都地方裁判所第6民事部 御中
2014年4月16日
陳述者(原告) 浅野健一
本訴訟の開始に当たり、意見陳述を認めていただき、厚くお礼を申し上げます。
2013年10月29日という日は私が今後、ずっと記憶しておかなければならない日になりました。その日の午前、院メディア学専攻の同僚、小黒純教授が大学の私の郵便受けに前日投函した、「臨時専攻会議」審議結果の通知書を読んだ時から、私は私の教授職と浅野研究室を守る闘いを余儀なくされたのです。
この通知書は、翌日30日に開かれた社会学研究科委員会に、「浅野の定年延長を提案しない」「渡辺武達教授の定年延長を提案する」という内容でした。学校法人同志社の教職員について、65歳定年という規定が一応ありますが、同志社大学大学院教授だけは、70歳まで定年延長されます。従来、社会学研究科で、定年延長を希望している教授が延長を拒まれた例は皆無です。全学的にも余程のことがなければ定年延長されなかった教授はいないと聞いていました。ですから、本来は私も当然定年延長されるべきだったのです。ですから、この通知書はとても信じられないものでした。
社会学研究科には5つの専攻があります。学長の任命で、各専攻に、教務主任が置かれており、2013年度のメディア学専攻の教務主任は私でした。私は昨年7月に65歳になり、14年度の定年延長対象者でした。対象者の私が研究科委員会への報告事項を整理する専攻会議に出席するのはよくないと考え、私と渡辺教授を除く4名の教授に任せることにしました。教務主任である私がいないことから臨時の議長になった小黒教授からは29日まで何の連絡もなく、私の定年延長に反対する理由の説明は今日まで全くありません。
私は、定年延長を希望しているにもかかわらず、排除されるのはおかしいので、10月29日午前、冨田安信研究科長(社会学部長兼務)に対し、渡辺教授と私の両方の定年延長を提案すると伝えました。
冨田研究科長は昨年7月、教務主任の私に14年度の院の開講科目表を10月17日までに出すように指示していました。私は専攻会議の議長として、渡辺教授と私の春・秋期の科目が入った一覧表を作成し提出しています。学部の授業も学科責任者の河﨑吉紀准教授が10月初めに学部の開講科目表を提出しています。研究科委員会での定年延長の承認は、形式的ではありますが、定年延長対象者とその教授の担当予定科目を明らかにして行うので、一応、この開講科目表が資料となります。
専攻として私の排除を決めた4人は10月30日の会議で、私が当事者であるため退席した後、私に関する悪口を書き連ねたA4・2枚の討議資料を冨田研究科長に印刷・帳合させた上、30人の教員に配布させ、私の定年延長に反対する理由を述べたことを、会議終了後に冨田研究科長から聞き、そのコピーをもらいました。
その文書を見て、私は驚きました。最高学府の教員たちがこういう悪質な人格攻撃、まさにヘイトスピーチのような文書を作成し、雇用問題の討議資料にしたことに衝撃を受けました。文書には執筆者名も作成日時も書かれておらず、まさに怪文書でした。
文書に書かれていることはほとんどが虚偽であり、中には名誉毀損・侮辱罪も疑われる悪質な内容です。私がいるせいで、「専攻の教員が帯状疱疹や突発性難聴を発症した」とまで書いているのには、呆れました。
ところが、研究科委員会は継続審議となった11月13日に、前代未聞の投票による採決で私の定年延長拒否を決めたのです。
こうして、怪文書を唯一の討議資料として、事実上、私の不当解雇が決まりました。こんな理不尽なことがとおるはずがない、学内の良心派がどこかでブレーキをかけてくれるのではと期待しました。しかし、大学執行部、部長会、法人理事会のどの段階でも、自浄能力を発揮できないまま、専攻のたった4人の「決定」が最後までとおってしまいました。「学部自治」とか「教授会民主主義」という美名の下で、怨恨に基づく闇討が正当化されてしまったのです。
そこで私は12月27日、京都地方裁判所に仮処分を申し立てたのです。その後も冨田研究科長を通じた浅野追放行動は止まらず、私は2月3日に本案訴訟も提起しました。
私の定年延長なし決定はまさに青天の霹靂、抜き打ちでした。「クーデター」だと称した識者もいます。4人は、昨年10月29日まで、私の定年延長に反対するというそぶりも見せず、私に13年度の教務主任をやらせ、14年度の大学案内に私のゼミと私の写真を載せ、高校生向けの模擬講義も担当させ、10月16日に開講科目を決定する際にも反対していません。4人がいつどのような理由で私の解雇を決めたのかはいまだに分かりません。
私は共同通信社を退社して同志社へ来た1994年から大学院教授で、専攻では最も長く院教授を務めています。専攻は1998年に博士後期課程を増設しましたが、その時に、私は文部省(当時)から博士論文を指導できるいわゆる「○合」資格を取得しています。
私が博士論文を指導しているインドネシア政府奨学生のナジ・イムティハニさんと、「福島原発事故とメディア」をテーマに、14年度から2年間日本学術振興会特別研究員に内定している矢内真理子さんらの院生、14年度も私の授業やゼミを受ける予定の学生たちには、私が3月末で解雇されそうだと知らせました。法人側は、私が学生たちに支援を強制している、学生を巻き込んでいると非難していますが、将来研究者になりたいと思う院生、マスメディアで報道の仕事に就きたいと思って浅野ゼミを希望している学生たちが、「浅野がいなくなったら困る」と立ち上がり、行動に出たのは当然ではないでしょうか。
私の授業は社会学部だけでなく、留学生、他学部、京都の他大学、一般市民も多数受講しています。4月に入学した学生たちが、私の授業がなぜないのかと事務室に問い合わせています。
私がなぜジャーナリストという職業にあこがれたかを最後にお話しします。
私が中学校3年生だった1963年11月23日、ジョン・F・ケネディ米大統領がダラスで暗殺されました。その日は、米国から初めての衛星生中継が行われる日で、私はNHKテレビで、NY特派員がこのニュースを伝えているのを見て、すごい仕事だと思いました。高校時代に米国へAFSで留学し、その後、「ペンは戦車を止めることができる」ということを知り、人権と民主主義を確立するためにジャーナリストを目指しました。
海外で活躍したいと思い共同通信を受け、幸い合格できました。記者になって3年目に赴任した千葉支局で「首都圏連続女性殺人事件」でとんでもない冤罪作りに加担してしまったことがきっかけで、人権と報道についてライフワークにしようと決めました。私は、市民の人権を守り、権力を監視するジャーナリズムを実践している北欧を調査して、1984年に『犯罪報道の犯罪』を出版しました。
この本の出版で会社をやめることになるかもしれないと思っていたのですが、逆に会社は私を外信部に行かせ、1989年ジャカルタ支局長にしてくれました。1992年に東京本社に戻り、ちょうどそのころにジャーナリズム論を教える教員を公募していた同志社に世話になることになったのです。
浅野ゼミはその時代時代に、報道の世界で最も重要で議論になっている問題を取り上げ、2年間の共同研究で具体的な提言をメディア現場や社会に行ってきました。実際、マスメディアに多くのゼミ生が就職し活躍しています。関西の報道関係者に「浅野ゼミ派閥ができるほどだ」と言われることもあります。
浅野ゼミ最大の成果は「DAYS JAPAN」増刊号(2012年4月)にまとまった福島原発報道の検証です。人権と犯罪報道では、浅野ゼミ14期生がまとめた「日本版メディア責任制度案」(08年10月8日)があります。
20年間大学院教授を務め、4人の学徒に博士号を主査として授与し、多数の院生学生を指導してきた私は慣例に従って70歳まで教授職を続けると思っていました。あと5年、留学生を含め同志社の同志と共にジャーナリズムのあり方について研究したいと思っていました。
法人同志社側は、私がメディア学科の教育環境を乱したなどというまさにでっち上げ・捏造したことを書面で書いています。4人の言説を検証もせず、そのまま一方的に主張しているのを見て、同志社はいったいどうなったのかと思うばかりです。
同志社大学は官の大学ではなく民の大学で、キリスト教の精神を基に、官の意向にとらわれないで教育・研究活動を行うためにできた学園です。昨年NHKで放送された「八重の桜」でも創立者新島襄の「同志社においては、型にはまらない同志を育成せよ、意見の異なることが大事である、いかなる理由でも学生を追放してはならない」との遺訓が紹介されていました。私が気に入らないからといって、私を「多数決」で排除するのは、建学の精神に反していると私は思います。
私は、健康であれば、この学園で同志と共に今後5年間働きたいと思っています。裁判所以外に、昨年10月下旬以降の同志社の非正常な状態を正すことができるところがありません。京都地方裁判所が、法と証拠に基づいて、私の学生と私、そして同志社を正常化させるための適切な判断を示されるよう心よりお願い申し上げ、私の意見陳述を終わらせていただきます。
以上
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☆裁判報告集会で支援体制を確認
4月16日午前、第一回口頭弁論終了後に京都弁護士会館の会議室で、報告集会があった。同志社大学と関西大学の教授、記者、劇団主宰者、市民らが「大学の自治」の美名の下で、浅野教授を追放する大学を批判した。
まず、弁護団を代表して平方かおる弁護士が裁判の経過を説明し、今後の方針を話した。最後に、「裁判は我々法律家が理論的に証拠に基づいて行っていくが、こういう苦しい状況にある浅野教授は精神的にも大変だ。みなさんの熱い支援があれば心強い。応援団がいることが、原告の励みになるので、よろしくお願いしたい」と要望した。
続いて小原健司弁護士が「出身校である同志社がこういう不当なことをしているのが許せない。何としても勝ちたい」と話した。橋本太地弁護士は「浅野教授の権利を守るために全力を尽くしたい」と述べた。
里見繁関西大学教授(元毎日放送)は「私も大学の教員で、65歳が定年で、その後再雇用がある。浅野先生と同じような問題での判例はこれまであるか」と尋ねた。
平方弁護士は「全く同じ事案はない。大学関係では、有期雇用の教員が期間終了後に、解雇されるケースが多い。誰かが担当しなければならないのだが、大学当局が気に食わない教員を雇わない。そういうケースではなかなか勝てない。あちこちで起きている。しかし、浅野教授の場合は、ほぼ全員が70歳まで雇用されており、いままでの案件とは違う論理で闘えると思う」と答えた。
「同志社大学では院教授は70歳定年制になっている。それが事実たる慣習になっている。法規範として70歳が定年というところまで高められるかが焦点だ」
浅野教授は「矢内さんが前に調べていたが、日本大学や法政大学などで、定年延長をめぐる裁判で教員側が勝っている。復職は求められたが、その判決の直後に病死したという。それから、橋本弁護士が調べてくれたのだが、神戸学院大学だと思われるが、学部のゼミの開講を理由に勝っている」と補足説明した。
橋本弁護士らは「その裁判の件の大学名ははっきりしていない」と述べた。
里見氏は「冤罪事件を取材してきた。共同通信記者だった浅野さんに取材して番組をつくった。渡辺武達教授と浅野教授の件は、昨年の裁判の終結で終わったと思っていたらまだ続いていたと知ってびっくりした。人間の恨みはすさまじい。浅野さんのこの定年延長拒否のことを記者がなぜ取材しないのか不思議だ。今日の裁判に誰も取材に来ていない。京都には大学記者クラブもあるので、関心を持つはずだと思っていた」と述べた。
浅野教授は「昨年12月末に仮処分の申し立てをした時に産経と京都だけが記事にした。本案訴訟の時にも、司法記者クラブで会見したが、三紙と通信社は全く報道しない」と語った。
庄司氏は「浅野教授のような裁判はない。同志社のような定年延長制度は他大学にはない。戦後、新制大学になった際、官学から『○合』教授を招聘するためにつくった制度が60年続いている。この裁判では、大学の自治、教授会の自治が問題担うと思う。浅野教授のケースでは、学部教授会ではなく、院研究科委員会だけで審議でしているのも問題だ。大学の自治の中身が問われる。浅野教授に対するやり方は、きちんとした大学の自治とは言えない。院教授の98・5%が70歳まで働いており、法規範と言える。浅野教授は、自分が追放される理由が全くないと主張しているが、浅野教授が排除される理由は全くない。1・5%の中に入らなければならない理由がないからだ。
小原弁護士は「浅野教授が起こして、浅野教授の全面勝訴に終わった裁判は、文春裁判と対渡辺教授裁判の二つの民事裁判がある。また、大学のキャンパス・ハラスメント防止に関する委員会は、浅野教授が被申立人となった事案で、昨年8月6日に“セクハラ、アカハラはなかった”と認定した。さらに、ハラスメント委員会は同日、浅野教授が2003年以降、渡辺教授からアカハラ被害を受けてきたと申し立てた事案で、大学のキャンパス・ハラスメント防止に関する委員会が調査開始を決定し、調査委員会を発足させ、渡辺教授と浅野教授のヒアリングを終えている。渡辺グループは、この定年延長制度を利用して浅野教授の追放を仕組んだのではないか」と背景を説明した。
出版社勤務の支援者は「浅野教授のケースを間近で見させてもらってきたが、同志社大の排除の論理はすさまじい」と感想を述べた。
平井氏は「浅野ゼミ主催の河野義行さん講演会に以前参加させてもらった。浅野先生は私たちのような一般市民にもジャーナリズム関係のイベントを開放されている。次はいつかなと楽しみにしていた。先生の定年延長がなくなって、おかしいと思って裁判に来た。大学側が、浅野教授が学者として不適格だと主張しているのに驚いた。浅野先生だけでなく私自身が排除されたような気がしている。遠方からだが、浅野ゼミの講演会やシンポに来るのを楽しみにしていた。学生さんが一番の被害者だと思う」と語った。
13年度に「新聞学原論Ⅱ」を聴講していた政策学部4年生は「朝鮮新報で、日本メディアの朝鮮報道が間違えていると書いているジャーナリストがいて、その先生が同志社にいると知って、単位にならないが、講義を聞いた。新聞記者になりたいと思っているので、浅野先生の授業、ゼミがないのは残念だ」と語った。
高間氏は「京都の知り合いの劇団員が微罪事件(矢内真理子さんが飯島滋明氏編著『憲法から考える実名犯罪報道』の中で書いている)で逮捕され、すぐに釈放されたが、新聞に実名報道されて、劇団が上演を中止するなどの被害が出た。その時に、浅野先生に相談した。同志社大学では4月からバイク通学を禁止して困っている学生が多い。近くに有料の駐輪場がない。学生たちが反対したのに強行した。学生のことを考えていない」と話した。
最後に浅野教授が「4月になって、大学は私がいなくなったと決め込んでいるが、裁判で勝って必ず戻りたい。同志と共に日本のジャーナリズムを変革する仕事が残っている。裁判の支援をお願いしたい」と挨拶して集会を終えた。